作品を理解するのに、その作家の私生活を知ることが重要なのだろうか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1004)】
首都圏も雪なので散策は取り止め、図書館から借りてきた本たちに集中しています。
閑話休題、『書物の宮殿』(ロジェ・グルニエ著、宮下志朗訳、岩波書店)は、文学を巡るエッセイ集です。
とりわけ、興味深いのは「私生活」というエッセイです。ある作家の作品を理解するためには、その私生活を知ることが重要なのだろうか――という問題が考察されているからです。
「この議論は、マルセル・プルーストによって、『サント・ブーヴに反論する』において華々しく始められた。プルーストは、教養もあり、鋭敏な知性の持ち主であるサント・ブーヴが、驚くほど終始一貫して、同時代の作家たちの価値を見誤っていたことを確認する。なぜであろうか? 嫉妬心によって説明できるものではない。スタンダールやボードレールといったあまり知られていない作家・詩人に、彼が嫉妬するはずもない。原因は、彼の方法論にある。サント・ブーヴは科学的な態度を保持したいと思っていて、こう述べている。『わたしにとって文学とは、その人間の残りの部分と区別しがたいもの、少なくとも分かちがたいものである。一個の人間を、すなわち純粋精神とは別のものを知るためには、いくら多様な方法を用いて、いくら多くの手がかりから着手しても、やりすぎるということはない。ある作家について、いくつかの問いかけをしてみるというなら、それが自分だけのために、小声でつぶやいた問いかけだとしても、それに答えないかぎりは、その作家をすっかり把握したという確信など持てないはずだ。たとえ、その問いが、作家の書いたものの性質とまったく無関係に思われようとも、ことに変わりはない。作家は宗教についてどう考えていたか? 自然の光景を前に、どのように心を動かされたか? 女性や、金銭のことで、いかにふるまったか? 金持ちだったのか、貧乏だったのか、はたまた、日々の節制や生活のスタイルはどうだったのか? どんな悪癖があり、どんな好みがあったのか? こうした質問に対する答えの一つひとつが、ある書物の著者を、その著作自体を評価するのに、どうでもいいはずがないではないか・・・』。こうしてサント・ブーヴは最終的に、自分が文学の植物学をおこなっていると考えたのである」。
「だがプルーストは、こうした知識はなんの役にも立たないし、むしろ読者を惑わせかねないとして、こう述べる。『一冊の書物とは、われわれがふだんの習慣や、人付き合いや、悪癖において露呈している自我とは、別の自我の所産なのである。このもうひとつの自我を理解しようと思うならば、自身の奥深くまで降りていって、自分のなかでこの自我を再創造しようと試みなければ、目的は達せられない。こうしたわれわれの内心の努力を免除してくれるものなど、なにひとつありはしない』。プルーストは、こうも書く。『スタンダールの友人だったからといって、いかなる点で彼をよりよく評価できるというのか? むしろ反対に、このことが正しい評価のさまたげになることだって、大いにありえるではないか』。
「プルーストはバルザックに関して、彼の私生活、家族やハンスカ夫人への手紙などからして俗物だと考えていたものの、バルザックを賞賛している。シュテファン・ツヴァイクも、こうした問いかけをおこなっている。ツヴァイクは作家バルザックを賞賛し、この人物を賞賛する理由を探し求めて、それが見つからずに腹を立てる。そして天才が不可解であることを発見する」。
「その生き方が浮ついて、からっぽで、失敗だといえる人間であっても、偉大な作品を創造することは可能である。実際、プルースト自身の場合から始めれば、この問いを避けることはできない。この耐えがたい社交人士が、リュシアン・ドーデが『不快な虫けらのような奴』と呼んだ人物が、いったいどうして『失われた時を求めて』の作者になれるのだろうか?」。
「フロベールは友人であってもサント・ブーヴに反対して、プルーストの側に立っているといえよう」。
「チェーホフもまた、プルーストの陣営にいるといえよう」。
「この問題はニーチェも考察しているが、視点が異なっている。ニーチェは、われわれが作者のことを知ることで、その著作や人格に対する考え方が歪められるとする」。
私も、プルーストの主張どおり、文学作品は作者の私生活とは切り離して評価すべきと考えています。しかし、私の胸に巣くっている好奇心が作者の私生活を知りたがって蠢くのです。
ロジェ・グルニエ自身は、小説をどう捉えているのでしょうか。「それは作者の精神生活の奥底を映し出すと同時に、外の世界の様相をも映し出す一種の鍵である。現実により真実なイメージを与えるために、現実を解体して、別の仕方で組み立て直す方法だ。より真実なイメージというのは、読者に有効で、世界や自分についてなにかしら教えてくれる、そういうイメージのことだと思う。人生というのは、生のままではあまりに一貫性を欠き、謎めいていて、そこから教えを引き出すことはむずかしい。この人生を、小説を通じて解体し、再構築すれば、われわれは考えをめぐらせることが可能となる。美的な、そして感情的なレベルの満足感に加えて、われわれに感動をもたらしてくれるのだ」。