交換教授制度を利用した二人の教授は、何と、妻をも交換することに・・・【情熱の本箱(264)】
現代英国を代表する小説家の作品はどういうものかという好奇心から、『交換教授――二つのキャンパスの物語』(デイヴィッド・ロッジ著、高儀進訳、白水uブックス)を手にした。
互いに見知らぬ、英国のラミッジ(バーミンガムを思わせる)のラミッジ大学の英文学教授、フィリップ・スワロー(40歳)と、米国のユーフォーリア(カリフォルニアを思わせる)のユーフォーリア州立大学の英文学教授、モリス・ザップ(40歳)が、交換教授制度を利用して、半年間、相手のポストで仕事をすることになった。「ユーフォーリア州立大学とラミッジ大学のあいだには、毎学年の後半、客員教師を交換する制度が古くからあった」。
フィリップにはヒラリーという妻と子供たちがいるが、ヒラリーは夫の米国行きに同行せず、英国に残るという選択をする。「ヒラリーは、前よりも長く考え込んだ。『一人でお行きなさいよ』と、やがて彼女は言った。『わたしは、ここに子供たちと一緒にいるわ』」。
「近頃、スワローの結婚生活においては、セックスは次第に小さな役割しか演じなくなった。・・・ラミッジでの結婚生活を通じ、ヒラリーは体を求められて拒んだことはなかったかわりに、自分から積極的に彼を誘うということもなかった。彼女は彼の抱擁に、彼の朝食を用意したりワイシャツにアイロンをかけたりするときに見せる、落ち着いて、ややうわの空の愛想のよさで応じた。年を経るに従い、結婚生活の肉体的な面に対するフィリップ自身の関心は衰えていったが、これは至極当たりまえのことなのだと彼は自分で納得した」。
一方のモリスには2番目の妻・デジレと子供たちがいるが、デジレは離婚したがっていることもあり、夫には付いていかず、米国に残る。「『あなたと一緒にいるとニシキヘビにゆっくりと呑み込まれてゆくような気がするの。わたしという女はあなたの自我の腹の中で半分消化されて突っ張ってるだけよ。外へ出たいのよ。自由になりたいのよ。もう一度人間になりたいのよ。・・・あなたが女子ホッケー・チームの全員と毎晩やりまくったって、全然痛くも痒くもないのよ。わたしたちは、もうそんなことはどうでもいい年よ』」。
半年の間に、何と、フィリップとモリスはポストの交換に止まらず、妻をも交換することになってしまう。
フィリップのヒラリー宛ての、今のところは出すつもりのない手紙は、こう綴られている。「僕たちがこれ以上昔のような関係を続けてゆけないのは、僕が変わってしまったからだ、ヒラリー、想像もつかなかったほどに変わってしまったからだ。僕は、きみも知っているように、地滑りの夜以来デジレ・ザップの家に泊まっているだけはなく、僕が逮捕された日以来、きわめて定期的に彼女と寝ているのだ。・・・間違っていたのは僕とデジレの関係ではなく、僕らの(13年におよぶ)結婚だったように僕には思われるのだ。僕らはお互いを完全に所有し合ったが、そこには喜びがなかった」。
一方のモリスは――。「彼(モリス)は彼女(ヒラリー)の背後に立ち、前夜にしようとしたように、彼女の首と肩の筋肉をそっと揉みほぐした。今度は彼女はあらがわず、彼に身をもたせて目を閉じた。彼は彼女のブラウスのボタンをはずし、両手を滑り込ませて両の乳房をつかんだ。『いいわ』とヒラリーは言った。『2階に行きましょう』。・・・『素敵だったわ』。『きみが素敵なのさ』。ヒラリーはにこりとした。『おおげさに言わないでよ、モリス』。『僕はまじめさ。きみは素敵な女さ、自分で分かるかい?』。『わたしは太っていて40よ』。『それが別に悪いってことはない。僕だってそうさ』。『あなたが、ほら、あの(cunnilingsの)キスをしはじめたときに頭をたたいちゃってごめんなさいね。わたしはあんまりソフィスティケートされていないのよ』。『そこがいいのさ。ところがデジレときたら――』。ヒラリーは明るさを少しばかり失った。『奥さんのことを話すのはやめにしましょうよ。フィリップのことも。ともかくいまはね』。『分かった』とモリスは言った。『じゃ、そのかわりにネッキングしよう』。彼は彼女をベッドの上に引き寄せた」。
「『デジレは猛女だよ。あれはきみのご亭主のような男を朝飯がわりに食べちまうんだ』。『フィリップにはとても優しくて親切なところがあるわ。たぶんデジレは、気分転換の意味でそこが気に入ったんでしょうよ』と、ヒラリーはよそよそしい調子で言った」。
交換教授制度の期限の6カ月が終わろうとする時、4人は一堂に会し、今後について話し合うが、その結果は・・・。
著者は、本作品をコミック・ノヴェルと位置づけているが、主人公が英文学者だけに、あちこちで、古き英国を代表するジェーン・オースティンの作品との比較論議が展開されている。正直に言うと、オースティン・ファンの私は、『交換教授』の自由過ぎるというか、あけすけな性描写には面食らってしまったのも事実である。
結婚生活とは何か、セックスとは何か、文学とは何か――を考えさせられる作品である。