『風と共に去りぬ』は恋愛小説ではなく、スカーレット・オハラは美人でなかった・・・【情熱の本箱(266)】
翻訳という作業をする場合は、原文の一言一句も疎かにできないのだから、翻訳家のテクスト解釈は必然的に強い説得力を有することになる。『謎解き「風と共に去りぬ」――矛盾と葛藤にみちた世界文学』(鴻巣友季子著、新潮選書)では、新潮文庫版『風と共に去りぬ』の訳者・鴻巣友季子が、翻訳を手がけるまでは気づかなかった、驚くべき発見の数々を明らかにしている。本書は、精緻なテクスト論に止まらず、原作者、マーガレット・ミッチェルの書簡、発言や作品発表時の書評、作者とその一族が辿ってきた道のりなどの作家研究が巧みに織り込まれているので、一層の厚み・深みが加わった衝撃的な論考となっている。
鴻巣の第1の発見は、スカーレット・オハラは美人ではなかったこと。
「出だしの一文を見ると、いきなり、『スカーレット・オハラは美人ではない』と明記されている」。
「容姿に関して総合すると、背は低めで、吊り目で、スクエア・ジョー(=エラ張り)、首は猪首気味で(ふっくらし)、腕はむっちりしていて、バストは年齢にしては並外れて大きいが、ウエストは恐ろしく細く、脚が美しい。正統派美人ではないが、人を惹きつける――まとめて言えば、『コンパクトグラマーできつめの顔立ちの魅力的な女の子』といったところではないだろうか。映画でだいぶ美化されている感は否めない」。
第2の発見は、性格が悪く自己中心的なスカーレットが読者から嫌われないのには、それなりの理由があったこと。
「(美人でないスカーレットが)なら、気立てが良いのかというと、性格もかなりわるい。とくに物語の出だしは、なにもこんなマイナス地点から始めなくてもいいのではと思うぐらい、良いところがない。読者の反感は必定だろう。利己主義、傲慢、甘ったれ、すぐに他人のものを欲しがる『略奪気質』、欲しくなったら容赦しない『肉食気質』、つねに自分が話の中心にいないと気が済まない『センター気質』。さらに、キリスト教徒としての信仰心も薄い。実際のところ、虚偽、不貞、略奪婚、殺人、盗み、ペテン、恐喝、『身売り』・・・と、手を染めていない悪事がないほどである。家庭でも、キッチンドリンカーで、アルコール依存症と言っていい状態になり、子どもをネグレクトする。ビルドゥングスロマン(=成長物語)というよりピカレスクロマン(悪漢小説)に近い部分もある」。
「このヒロイン(=スカーレット)が嫌われないのは、人物造形の良さもあるだろうが、いちばんは作者の文体と話法のなせる業なのだと思う。小説の主人公に反感を抱いてそのまま作品まで嫌いになってしまう場合がある。書き手と作中人物に距離感がない、あるいはその距離が一定すぎると、このパターンに陥りやすいのではないか。主人公にはあまり良い感情が持てないが、その反感自体を楽しめる場合もある。『なんだ、こいつ』とツッコミながら、完全な拒否感にはつながらない。GWTW(=『風と共に去りぬ』)がこのケースだとすると、その理由は第1に、書き手の作中人物との距離のとりかたが絶妙で、じつに伸縮自在であること。第2に、語りのトーンの切り替えが巧みであることが挙げられる」。
第3の発見は、『風と共に去りぬ』の真のヒロインは、スカーレットではなく、スカーレットの義妹、メラニー・ハミルトン・ウィルクスだということ。
「この本の真の主役はある意味、メラニー・ハミルトン・ウィルクスだとわたしは思っている。ミッチェル自身も、メラニーに関する記述は編集の際に削らないでくださいという注意書きをわざわざマクミラン社の編集者に送ったことがある。なぜなら『作者にしか分からないことかと思いますが、数ある登場人物のうち、メラニーこそがこの本のヒロインだからです』。ミッチェルにとっては、メラニーこそが『マイ・ヒロイン』だったのだ。これまで、おおかたの評はこのふたりを好対照の一対とし、スカーレットを激情的で不道徳で世俗的な悪女(ビッチ)で『主役』、メラニーをもの静かで清廉で俗離れした聖女で『脇役』としてとらえてきたが、はたしてそうだろうか?」。
「スカーレットとメラニーは二人で一つのキャラクター、もしくは一つのキャラクターが二つに分かれたものである」。
「わたしがメラニーを『裏/真のヒロイン』と呼ぶのは、そこに『真の南部婦人像』が描かれているからではない。結論から言うと、物事の全容を把握し、GWTWの物語を要所要所で動かしているひとりが、メラニーだからだ」。
「メラニーはこの物語の力強い結節点となっており、この人物なしには話が成立しない。旧来の一面的な善のイメージではとても捉えきれない、本作中、最も難解で、矛盾していて、複雑なキャラクターだと、わたしは翻訳を進めるほどにますます強く感じるようになった」。
第4の発見は、スカーレットの3番目の夫、レット・バトラーが、スカーレットの「母」の役割を担っていること。
「GWTWはひとりの女性(=スカーレット)の依存と自立を描いているとも言えるが、彼女の庇護者として、(母の)エレン、メラニーの他に、もうひとりの『母』が存在する。レット・バトラーこそが、そのもうひとりの母だと(ミッチェルの評伝の著者、ダーデン・アズベリー・)パイロンは捉えており、わたしもこの見解に強く同意する。筋骨たくましいマスキュリン・キャラを絵に描いたような人物だが、よく見るとじつに女性らしく、母性あふれる言動をしている」。
第5の発見は、物語のラストでスカーレットが発する「Tomorrow is another day.」は、力強い決意表明ではなく、単なるスカーレットの口癖に過ぎなかったこと。
「Tomorrow is another day.はもともと16世紀前半まで起源を遡る英語の諺のようなもので、原型はTomorrow is a new day.だった。スカーレット・オハラの『口癖』であり、彼女は絶体絶命のピンチに陥るたびに、これを『おまじない』のように唱える。そう、口癖なので、むしろラストシーンらしい華々しい決め台詞的な訳語は似合わない。なのに、つい決め台詞らしく訳してしまうのは、いろいろな要素が関係しているだろう。全編を単独で訳すか、一貫したポリシーをもってチェックしないかぎり、このシンプルな台詞がヒロインの口癖だと気づきにくいのだと思う。・・・映画版では夕日をバックにしたクライマックスらしい演出になっており、ここにも映画と原作の違いが如実に表れている。スカーレットはこのおまじないを唱えて、何度となく危機を乗り越えていく。そのため、映画や舞台では『明日に希望を託しましょう』などと前向きに訳されたこともある。・・・Tomorrow is another day.――たとえ、今日と代り映えしなくても、つぎの一日が始まる。そのなかでなんとか生き抜くしかないというある種の諦観がベースにあり、しかし、重要なのはこの台詞を言わされているスカーレットはそんなキリスト教観は与り知らないことだ。だからこそ、何度も挫けながら人生を新生させ前に進もうとするヒロインの意志がいっそう輝くのである」。
第6の発見は、『風と共に去りぬ』は本質において恋愛小説ではなく、女性同士の複雑な友情とその関係を描いた心理小説だということ。
「じつは本作はスカーレットと男性たちの恋愛関係ではなく、彼女とメラニーの関係こそを主軸に読むべきなのではないだろうか?」。
「この大長編を『恋愛小説』ではなく、女性同士の複雑な友情とその関係を描いたものとして見ると、新たな作品世界が立ち現れてくるはずだ」。
第7の発見は、スカーレットが延々と片思いの気持ちを抱き続けたアシュリ・ウィルクスには、ミッチェルの若い頃の恋人、ヤンキー(北部人)のクリフォード・ヘンリー中尉というモデルが存在したこと。