伊勢宗瑞(北条早雲)は、下剋上どころか、主筋に忠実な人物だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1433)】
ツツジとシャクナゲの交配種であるヨシノツツジが濃桃色の花を咲かせています。シデコブシが淡桃色の花を付けています。モクレンが紫色の花をまとっています。因みに、本日の歩数は10,084でした。
閑話休題、『今川氏親と伊勢宗瑞――戦国大名誕生の条件』(黒田基樹著、平凡社)は。私が理想とする歴史書の3条件を備えています。
●さまざまな見方ができる歴史的事象に対して著者自身の見解を明快に述べる、●その見解に至った論拠を具体的に示す、●断定できない問題については、自分はこう推考しているが確たる証拠が未だ得られていないことを認める――これが、私の考える3条件です。こういう執筆姿勢に止まらず、内容も充実しているので、読み応えがあります。
「伊勢宗瑞(そうずい=北条早雲)が、今川氏親(うじちか)のもとで、その補佐役として行動した最初は、まだ宗瑞が実名(伊勢)盛時を称し、また氏親も幼名竜王丸を称していた長享元(1487)年にまでさかのぼる。この時、宗瑞は32歳(数え年)、氏親は15歳であった。氏親を今川家当主に据えるクーデターに際してのことであった。ここで宗瑞は、京都から駿河に下向し、氏親支持の今川家臣を糾合し、当主であった今川小鹿範満を討滅して、氏親を今川家当主に据えたのである」。
「宗瑞が氏親を補佐したのは、軍事行動においてだけではなかった。戦国大名としてもう一つの基本的な側面となる、領国統治においてもみられていた」。
「宗瑞は、検地にもとづいた領国支配体制を構築した最初の戦国大名とみられている」。
「宗瑞がしばしば駿府を訪れていたのは、宗瑞にとって、氏親があくまでも主人にあたったからであろう。駿府への参向は、氏親との間における主従関係を確認する場でもあったといえる。史料的には永正9年以降は確認されないものの、その後においてもなかったとは言い切れないことはもちろんであろう。宗瑞の心境としては、自身はあくまでも氏親の叔父として、それを支える存在であると、最後まで認識していたのではなかったろうか。その際に、いまだ姉の北川殿(=氏親の母)が生存していたということも、大きく作用していたように思う。そもそも宗瑞が氏親の補佐にあたったのは、北川殿の存在によるものであっただろうから、その姉が健在でいる限りは、終生その心づもりにあったのではなかろうか」。宗瑞は下剋上でのし上がった権力志向の謀略家と思われがちだが、実際は主筋に忠実な人物であったことが明らかにされています。
「永正7(1510)年から、それまで一体として存在してきていた氏親と宗瑞は、実質的には、別々の政治行動をとっていくことになっていった・それは同時に、氏親は独力で軍事行動や領国支配を統轄していくということであり、宗瑞もまた独力で、関東の政治勢力との抗争を展開していくということであった。そしてそれはまた、今川家は西へ、宗瑞とその子孫は関東へという、その後における戦国大名としての今川・北条両家の基本的な方向性を規定していくことにもなるのであった」。
「(宗瑞は)伊豆を領国化して今川氏御一家の立場にありながらも独立した戦国大名として存在するようになり、さらには相模一国・武蔵の一部までを領国に加えて、一代で伊豆・相模二ヶ国の戦国大名になったのであった」。
「(氏親は)大永6年4月14日に、三十三ヶ条にわたる『今川仮名目録』を制定している。これは東国の戦国大名のなかで、法典の形態をとった分国法として最初の事例にあたっている」。
「(氏親は)年少期における隠遁生活から、叔父の宗瑞の支援をうけて、駿河今川家の当主に据えられ、宗瑞の補佐をうけながら、駿河・遠江二ヶ国に加えて東三河におよぶ広大な領国を形成する戦国大名となった。この領国規模は、当時においては全国的にも有数のものといえ、東国では間違いなく最大のものであったといえる。また京都の公家の娘と結婚し、その関係から当代有数の公家・文化人との交流をみるようになり、駿府への来訪を頻繁にして、『今川文化』と称されるほどの文化的中心地となる礎を築いてもいる。これらの意味で氏親は、間違いなく当時最先端の戦国大名の一人であり、東国では卓越した存在であったといえる」。
「しかし実際の氏親は、晩年は鬱病に罹っていたとみられるように、精神的にはあまり強くなかったらしいことがうかがわれる」。
「氏親と宗瑞の二人の人生を、決定的に規定した存在が、氏親には母、宗瑞には姉にあたった北川殿であったといえるであろう。・・・この北川殿は、今川氏親と伊勢宗瑞を、戦国世界のなかで戦国大名として存立させていく背景に位置した存在であった。そして氏親の子孫は戦国大名今川家として、また宗瑞の子孫は戦国大名北条家として、ともに東国における代表的な戦国大名として展開していくのであった。そのことからすると、北川殿こそが、真にそれら二つの戦国大名家を生み出した存在であったといっていいかもしれない」。
本書のおかげで、北川殿という女性が果たした大きな役割、互いに緊密な関係を保った今川家と北条家が、共に先進的な戦国大名であったこと、戦略的で実行力に溢れた宗瑞が篤実な人物であったこと――を知ることができました。