絶対に戦争はするな、原発はやめよう――菅原文太が命尽きるまで訴え続けたこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1625)】
千葉・野田の三ヶ尾におけるタカの渡り観察会に参加しました。残念ながら、今日は南風で南方に渡るタカたちには向かい風なので、渡りはありませんでした。かなり遠方だが、猛禽類のオオタカ、ノスリ、サシバ、チョウゲンボウをカメラに収めることができました。鮮明なサシバの写真は、三ケ尾鷹渡り研究会の会員が先日、撮影したものです。因みに、本日の歩数は10,107でした。
閑話休題、正直に言うと、私は俳優としての菅原文太よりも、晩年の社会活動家としての菅原文太に共感を覚えていました。ところが、『おてんとうさんに申し訳ない 菅原文太伝』(坂本俊夫著、現代書館)を読んで、俳優としての菅原文太も好きになってしまいました。
「平成26(2014)年11月28日、『仁義なき戦い』や『トラック野郎』で多くの映画ファンを魅了した映画俳優、菅原文太が転移性肝がんによる肝不全のため、81歳でこの世を去った」。
「井上(ひさし)が昭和48(1973)年に『青葉繁れる』を出版する。文太の代表作『仁義なき戦い』が公開された年だ。この小説は、井上の元奥さんの西舘好子によると、文太の高校時代のエピソードが盛り込まれているとのことである。文太夫妻が井上宅に遊びに行った際、仙台一高時代の思い出話を文太が語った。西舘は次のように書いている。『・・・それを聞いていた井上さんが後に小説にしたのが『青葉繁れる』です。自叙伝のように言われていますが、出てくる話の元はみんな文太さんやその仲間のエピソード。井上さんにとって文太さんは、小説の『ネタ元』であった。ちなみに、そのマドンナとは、後に女優となった若尾文子さんでした』」。
「笠原(和夫)の(『仁義なき戦い』の)渾身の脚本ができた。監督は、俊藤浩滋の薦めもあって、東京撮影所で仕事をしている深作欣二に任せることになった。文太は俊藤に『深作さんにやらせてください』と頼んだと話している。深作と組んだ『人斬り与太 狂犬三兄弟』が撮り終わった頃で、文太は深作と共鳴するところが多く、『<仁義なき戦い>に関しては、どうせ作るのなら、従来とはちがうものにしたいと思ってね。それで深作さんに固執したんだよ』というように、任侠映画とは違うこの作品は深作でなければと、文太は思っていたのだ」。
「(日下部五朗曰く)「文ちゃんは、この映画の大ヒットで、それこそスターダムにのしあがったが、だからといって、おごり高ぶることは一切なかった』」。
「文太の社会活動は俳優として忙しく働いていた頃からあった。俳優を営む傍ら、少しずつ社会とかかわりを持つようになっていったのである」。
「平成15(2003)年、ラジオのニッポン放送で、文太の番組『菅原文太 日本人の底力』が始まる。さらに、平成22(2010)年には雑誌『本の窓』で『外野の直言、在野の直観』という連載を始め、ともに文太が亡くなるまで続いた。いずれも、学者、ジャーナリスト、医師、特定の分野の専門家などのゲストを呼んで、その時々のテーマについて語り合うというものである。・・・そのゲストを選んだのは文太自身であり、彼の関心を反映している。『客人(番組ではゲストをこう呼んでいた)が決まると、菅原さんは多くの時間を割いて、入念な予習をされました。客人の著書、インタビュー記事、メディアにおけるコメントなど、客人に関する資料は膨大な数にのぼりました』」。
「読書は文太の日常の一つだった。文太は俳優として忙しく働いていた頃から本は離さなかった」。
晩年の文太は、●農業を変えたいと、有機無農薬農業、●東電原発事故を契機に、反原発・脱原発運動、●戦争を絶対にしないために、憲法改正反対運動――に精力的に取り組みます。「加藤晋によると、文太は『俺はもうすぐ死んじゃうけど、このままの日本じゃ、子供や孫の世代がかわいそうじゃないか』、『今きちんとこの問題(原発と憲法改正の問題)に向き合っておかないと、これからの日本がダメになってしまう』と、よく話していた。加藤はそれを『文太さんの使命感だった』ととらえている。原発をなくすこともそうだが、子どもや孫の世代のために、憲法を改悪し、日本を再び戦争をするような国にしてはならない――戦争の時代を生きた文太が心底思っていたことだった」。