榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

マリアの処女懐胎、イエスの復活の真実・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1792)】

【amazon 『新約聖書を知っていますか』 カスタマーレビュー 2020年3月11日】 情熱的読書人間のないしょ話(1792)

東京・千代田の日比谷公園で、ネモフィラの手入れ中の女性(胸の名札によれば、日比谷公園サービスセンター長・小笠原明子さん)から、ソメイヨシノが開花したと教えられました。隣の皇居の濠で、セグロカモメが水浴びを繰り返しています。因みに、本日の歩数は16,452でした。

閑話休題、私は無宗教であるが、宗教の成り立ちには強い関心を抱いています。この意味で、『新約聖書を知っていますか』(阿刀田高著、新潮文庫)には、大いに共感を覚えました。

とりわけ、大きく頷いてしまったのは、「受胎告知」と「ピエタと女たち」の章です。「受胎告知」ではマリアの処女懐胎が、「ピエタと女たち」ではイエスの復活が扱われているからです。

「すべての聖書物語のたぐいは、4つの福音書を綜合的に捕らえたものである。私もその道を選ぼう。そして、その道の冒頭に立ったとき・・・受胎告知はなかっただろう、と私は考えている。それは、――処女が受胎するわけ、ないだろ――という科学的な根拠から言うのではなく、史料の判断としてそんな気がする」。

「イエスが生きていた1世紀の初頭、そしてその死の直後、イエスの出生にまつわる不思議なエピソードは、あまり広くは語られていなかったのではあるまいか。周知の情報なら、こんな大切なことをマルコやヨハネが(それぞれの福音書で)無視するはずがない。エピソードが生まれた背景には、すべての民族が持っている民俗的な思考傾向、つまりヒーローは普通の生まれかたをしない、という願望があった、と私は思う。神が人間の女性を身籠らせ、そこから世を救う英雄が誕生するという骨子は、ほとんどの神話伝説に見られる特徴である。庶民を対象にして広がっていった福音書の内容も、同じような影響を受けていただろう。マタイとルカがそれを記した」。

「そして、それにいつの頃からかマリアへの崇拝が加わる。マリアも普通の人であってはなるまい。そんな感情が生まれる。新約聖書の中身をすなおに読む限り、マリアはそれほど重要な立場を与えられていない。2つの福音書には受胎告知がつまびらかに記されているけれど、これは伝道の揺籃期にどこかの教団で部分的に語られ、マタイとルカによって伝えられたものだろう。しかし、時代が移るにつれ、マリア崇拝は勢いを増し、一つの主流となり、確乎たるものとして育った。宗教には、母がわが子を包み込むような全き恵みがなければならない、厳格さだけでは宗教は大衆のものとなりにくい、という宗教学者の指摘もある」。

本書の読み所は、ここからです。「マリアの相手はほかにいる。ローマの兵士、パンテラという名前だ、という指摘が早い時期からあるにはあった。心根の正しいヨセフはそれを承知でマリアを引き受け、成長したイエスは、その事実を知って早く家を出た。家督を正統な弟たちに譲ろうと考えたわけである。と同時に、イエスはそうした事情にもかかわらず、自分をわが子同様にいつくしんでくれたヨセフの姿を通して、人の世の愛を知った、と、この説は説くのである。辻褄があっている部分もあるけれど、パンテラは、キリスト教に反対する人たちの捏造かもしれないし、2千年の歳月が経過した今、この説を確かめることはできまい」。

「西暦30年4月7日午後3時過ぎイエスは十字架の上で息を引きとった。遺体を受け取って墓に納めたのはアリマタヤのヨセフだった。すでに安息日の夜が近づいていて、屍に香油を塗るなど充分な手当てができなかった。イエスと親しかった女たちにはそれが気がかりだった。安息日が明けると、朝早く女たちはイエスの墓へ向かう。・・・墓穴の入口は大きな石で塞がれていたはずなのにゴロリと脇に転がされ、黒い口がポッカリと開いていた。――どうしたのかしら――。中を覗くと白い衣を着た若者がすわっている。『あら』と驚く女たちに、若者は、『驚くことはない。あの人はここにいない。かねて言われた通り、復活されたのだ。復活してガリラヤに行かれる。さあ、帰って弟子たちに、そのことを伝えなさい』と告げた」。

「マグダラのマリアは、思いもかけない出来事にすっかり動転したが、――とにかくみんなに知らせなくちゃあ――と、イエスの弟子たちのいるところへ走っていった。その途中でマグダラのマリアは、復活したイエスその人に会っている・・・。マタイによれは、イエスは『おはよう』と声をかけ、マグダラのマリアたちはその足を抱き、ひれ伏している。マルコは、ただマグダラのマリアがイエスを『見た』という1行だけを記し、ヨハネによれは、『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』と、遺体のない墓の近くで男に尋ねられ、マグダラのマリアが、『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私があの方を引き取ります』と答える。すると男は、親しみの籠った声で、『マリア』と呼ぶ。それがイエスだった・・・と、そのときの情況をかなり克明に記している。どれが本当だったのか。・・・さらにイエスは直弟子たちが集まっているところへも姿を現わし、おそれおののく弟子たちに(弟子たちが守るべき使命を)告げている」。

この後に記される著者の見解は圧巻です。「イエスの復活は本当にあったのだろうか。『何時間も十字架にぶらさげられていたんだろ。死刑なんだから。半端な苦痛じゃないぜ。そのうえ槍で刺されて・・・。死んだものが生き返るわけないよな』と、まことに、まことに、ごもっともな意見である。『でも、神の子なんだから』と、それを信ずるかたには、以下の数ページは必要がない。神の子が来臨しなかったという証拠はどこにもないのだから。信じるものは救われる、という言葉にも一定の真理が含まれている。だが、神の子が来臨したという証拠も同様にないのである」。

「神が実在し、自分が神の子であることを証明する方法として、病人を癒したり、超自然的な技を演じて見せたりしたが、それだけではまだ迫力が足りない。伝聞であったり偶然と思われたりして、説得力を欠く。そんなイエスが、ある日、忽然と得た啓示が『十字架に懸かり、3日後に復活する』であった。・・・イエスは自分が神の子であると確信し、多少の煩悶はあったにせよ、3日後の復活を確信して十字架に懸かっただろう。墓の中にイエスの遺体がなかったのは、だれかが運んでほかへ移したからだろう。そのだれかは・・・アリマタヤのヨセフ。その墓に屍を入れた人がそれを動かすのが一番自然である。白い衣を着た若者と、もう1人いたらしい若者が運搬の実行者だったのかもしれない。彼らは多分マグダラのマリアたちが遺体に香油を塗りに来ることも予測していただろう」。

「イエスが神の使命をまっとうするために十字架に向けて歩み出したとき、おそろしいほど鋭利な判断力を持ったリアリストがイエスの復活を画策する。まず遺体を隠さなければならない。復活はガリラヤで。エルサレムを遠く離れていたほうがよい。イエスを敬愛していたマグダラのマリアに暗示を与えることなど、そうむつかしくはあるまい。マグダラのマリア自身も計画のメンバーだったかもしれない。復活したイエスが現われたのは、弟子たちの前ばかりである。口裏をあわせることはやさしい。・・・イエスの復活は、その信奉者たちにとって絶対に必要なことであった。まだ脆弱であった集団の基盤を確かなものとするために欠くことができないことであった。だからイエスは復活したのである。ちがうだろうか」。

処女懐胎も復活も、阿刀田高の説得力ある推理に全面的に賛成です。イエスは心優しい義父・ヨセフに感謝したことでしょう。そして、イエスは自分の宗教をしっかり根付かせるという賭けに見事勝利したのです。