愛する女を妻としている男の幸福を考えたことがあるか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1874)】
見たことのない不思議な白い葉に吸い寄せられました。この家の女性によれば、葉の色が淡桃色→白色→中心部が緑色へと変化するそうです。枝を切って、女房に手渡してくれました。この植物は、アメリカハナズオウ ‘シルヴァー・クラウド’ と判明しました。あちこちで、さまざまな色合いのタチアオイが咲き競っています。
閑話休題、『果てなき便り』(津村節子著、文春文庫)は、吉村昭と津村節子の結婚前、結婚後の手紙を巡るエッセイ集です。
「<私は何も出来ない女です 御飯の水加減もわからなくて お洗濯とお掃除は死ぬ程嫌ひで(不潔にしていても平気と云ふのではないの さう云ふ事に労力と時間を費すのが惜しいのです) 所謂良家の子女がお嫁入りの準備と称して習ふことを軽視して 女のくせに小説といふ厄介なものをしよつていかうと云ふヘンな女ですが まあどんなすばらしい奥さんになるか ケタがはずれてゐますが ちよつと類例のない奥さんになつてみせます だから大切にしなきやいけません その辺にいい奥さんはザラにいますが 私は貴方にとつてかけがへのない奥さんになつてみせます 自分で云ふのだから確かよ (これは貴方のせりふね)>。短大を卒業したのは昭和28年3月で、結婚したのはその年の11月だから、吉村が26歳、私が25歳である。25歳にもなっていて、よくこんないい加減なことを書いたものである。こんな手紙を書く女と結婚する気になっていた吉村も吉村である」。
「封筒にはいっていない手紙が多いので、消印のスタンプがないから年月日がはっきりしない。恐らくこれは、結婚間もない時の手紙だと思う。折りたたんだままの、しかも当時の粗悪な藁半紙なので折目から破れていて、破れ目をつき合わせなくては判断出来ない。<今夜僕は、お前と二人で、お前の云ふいはゆるありあはせの食事をした。お前の食事をしてゐる横顔をみて、僕は、『こうやつて僕もお前も年をとつて行くんだねえ」と云つた。僕は、夫婦つて美しいと思ふ。そまつなものを二人でともに食べる。ありがたい話だ。僕は、一生ぼん悩の消えぬ解脱出来ぬ人間として世を終るにちがいない。残念ながらさうとしか信じられぬ>』。
「<さて、節子、僕の許を離れるな! 僕は生来愛に飢えてゐるくせに、病気この方、変に冷い態度を装ふくせあり。病前にはなかりしことなり。あはれと思ひ、寛恕せよ。性格、欠点多し。ために愛想をつかし、離婚などせぬやう。僕が、どんなわがままを云つても、決してはなれてくれるな。節子よ。>。私が唯一認めているのはかれの文才である。弟のような世渡りは苦手だし、性格は自分でも書いているように『欠点多し』である。『Z』に書いた『さよと僕たち』は、今でも私の好きな作品で、この人は小説を書いている限りひょっとするとひょっとするかもしれない、という期待を持たされるのである」。
「電車の中でか、旅行の列車の中でか、手帳に乱暴に書かれている頁を破いてホッチキスで留めたものが、手紙の箱の中にあった。<節子と小説を書く日々、それは僕が生きている日々なのだ。節子にとって、僕はあきらかに不甲斐ない男にちがいない。だが僕は才溢れる一人の男なのだ。勤めに通うのは全く空しいが、僕は夫であり父だ。それを超えて作家である僕がいるのだ。今日ある男から離婚したいと相談された。僕は改めて実に実に家族を愛していることを感じた。生涯というものをお前は考えたことがあるか? 愛する女を妻としている男の幸福を考えたことがあるか? それは生命に代えてもよいような幸せなのだ。そして第二は、小説を書く能力に僕自身が恵まれていることなのだ。僕はそういう意味で、生きる価値のある人間なのだ。残る人生の時間と斗って妻子を愛し、そして後世に残る日本現代文学を象徴するような作品を書き続けたいのだ>」。
「<貴女は人間的に素晴しい。女としても、僕には分に過ぎたひとです。貴女と共に過すことができたことは、僕の最大の幸福です。生きてきた甲斐があった、生れてきた甲斐があったと思います。それに、司と千夏を得たことは、感謝のほかありません。なんと良い奴たちなのだろう。それも貴女故のことで、血の正しさ、育て方の柔軟さが、司と千夏を現在のようにしたのです。司と千夏は実に立派で、親孝行の子たちだと思います。・・・貴女と結婚していなければ、現在の僕はなく、司や千夏もこの地上には存在しない。僕が気難しいと貴女は言いますが、両親に早く死別し、兄たちの家を転々と居候した間に生れた卑屈感、拗ね、その反動としての威丈高であると理解し、お許し下さい。人間は、いい環境で育たねばならぬものだ、とつくづく思います。愛情は尊敬だと僕は信じていますが、僕は貴女を尊敬し、惚れています。時にはこんな手紙を出したい気になります。明日は家に帰るというのに・・・。この手紙は明日帰る家に郵送します。笑わないで下さい。 昭和五十二年八月六日 午後七時ニ十分 高野山 西南院の一室にて 昭 節子 様>。高野山に講演に行った時の手紙なので、寺の静寂な雰囲気が影響しているのだろう。笑わないで下さい、と書いているのは、自分でも常とは異なる気分になっていることを意識しているためだと思われる。旅に出る時には、このような心境になるのだろうか。一家の主として心にあることを言い残す。今読み返してみて胸にしみる」。
「私も吉村が亡くなったあと、井の頭公園のはずれの、周囲に人家もない場所までさまよって歩き、声をはり上げて泣いた。井の頭公園は中央の池を囲む傾斜地になっていて、池が流れ出る神田川の周囲は人家も人影もない。そんなあたりまで夫婦で歩いて来たこともなかった。私は誰に聞かれてもいいという思いで、声を限りに泣いた」。
自分たちもこういう夫婦でありたいと思わせる、胸に沁みる一冊です。