見つかった木簡から、古代律令国家の下級役人たちの日常生活が見えてくる・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1914)】
サルスベリ、ゴーヤー、ヤブカンゾウの花が咲いています。
閑話休題、『木簡 古代からの便り』(奈良文化財研究所編、岩波書店)は、古代律令国家の都であった藤原京、平城京、長岡京などから見つかる木簡に対する理解を深めるのに最適な一冊です。
「(遺跡の)数々の調査成果の中でもっとも特筆すべきは、木簡の発見です。文字資料のもつ力は絶大です。歴史的事実を明らかにするだけでなく、遺構や遺物の性格を考えたり、その年代を決めたりする手がかりを与えるのも、それらと一緒に見つかる木簡です。平城宮で働く役人たちがさまざまな事務作業の過程で実際に使った木簡が、そのままの形で見つかるのです。生の資料といって過言ではありません」。
「長屋王宅の決め手となった役所の手紙」、「転用の道は便所や祭祀にも」、「失われた大宝令を解き明かす」、「書きぶりににじむ役人たちの素顔」など、興味深い考察がてんこ盛りです。
「木簡が遺跡の究明に役だったもっとも顕著な例を、平城京における左大臣長屋王(676?~729年)宅の発見に見ることができます。謀反の罪を着せられ、729年に自害した悲劇の宰相の屋敷、その政治的な事件の場をまさに目前にすることになったのでした。その決め手が、『長屋王家木簡』と呼ぶ3万5000点に及ぶ一大木簡群の発見です。1988年のことです。・・・何が長屋王宅の決め手となったのかといえば、それは雅楽寮という役所から長屋王の家令(国から与えられる家政機関の長官)宛てに出された手紙の木簡です。当時の手紙は差し出し側に戻って捨てられることもありましたが、ここが役所である可能性はほとんどなく、この木簡は長屋王の家でなければ見つかり得ない資料と言えるのです。この木簡を核にして、さまざまな木簡が長屋王に収斂してゆく様子が明らかになることで、最終的に長屋王の屋敷であると判断したのでした」。
「木簡の再利用は、木簡として(表面を削って再利用する)のみにとどまりません。以前から、木簡には縦に割けた状態で出土する例が多数あることが知られていました。・・・なぜ、木簡は縦に割かれたのか。今最も有力なのは、籌木(ちゅうぎ)説です。籌木とは、用をたしたあとにお尻を拭くための細長い木片のことです。専用の籌木もありますが、大きさも形状も、木簡を割いて加工するのが簡単でした。こうしていわばトイレット・ウッドとしての再利用という、思いもよらぬ木簡の一生が明らかになってきました」。
「この木簡に書かれている字句の元となる文章は大宝令なのですが、実は大宝令は現在に伝わっていません。・・・確かなのは、大宝令の規定を元にこの木簡が書かれているということです。書き手だった(文字を練習中の)役人のかたわらには、現在みることのできない大宝令の写しが置かれていたのかもしれません。不思議な感覚ですが、この木簡を見ることで、私たちは古代人の目を通して大宝令の一部を見ているのです」。
「右行が本来の解の文章で、左行は右側の文字を見ながら記した習書(練習)と考えられます。両者を見比べてみましょう。右行はかすれて見にくいのですが、さすが公文書、楷書に近い謹直な文字が並びます。一方、左行の文字は稚拙で滑稽。とくに四文字めは、ちょっと・・・。五・六文字めも、一体何の字を書こうとしたのやら、と半ば呆れてしまいます。でもひょっとして、左行の書き手はほとんど文字を知らない初心者だったのでは――そう思うととたんに、右行に何度も目を遣りながら、文字を覚えようと懸命に書き写す、微笑ましい姿が目に浮かんできます。・・・木簡、とくに削屑は下級役人の人名の宝庫です。それだけでなく、木簡の多くは日常業務の中で使われたもので、書き手も実務を担う下級役人が中心でした。そのため木簡の文字には、歴史の表舞台には縁遠い彼ら下級役人たちの、リアルな想いがにじみ出ているのです」。