室町末期に曲直瀬道三という名医がいたことを、君は知っているか・・・【薬剤師のための読書論(40)】
『医の旅路はるか――曲直瀬道三とその師田代三喜篇』(服部忠弘著、パレード)のおかげで、室町時代末期に名医と謳われた曲直瀬道三(まなせ・どうさん)という人物がいたことを知ることができた。
「日本の近代医学に先鞭をつけたのは、中国の金・元時代に主流をなした李朱医学といわれる。これを明の国から逸早く取り入れて日本に紹介し、医学教育の素地を作ってくれた人物がいる。一人は、田代三喜(さんき)といい、もう一人は曲直瀬道三という。この二人が今日の近代医学に繋がる『仁愛』を基本にした李朱医学を高らかに唱えたのである。折しも、京都を焦土と化した応仁の乱が終わり、室町幕府が衰退の一途をたどる時期にあたる。諸国が下克上の世となりつつあって、各地の有力大名が群雄割拠してきたころである」。三喜は、道三が心酔した42歳年上の医学・薬学の師である。
道三の患者として、12代将軍・足利義晴、13代将軍・足利義輝、三好長慶、毛利元就、織田信長、蒲生氏郷が登場する。松永久秀、羽柴秀吉、千利休、柳生宗厳との出会いも描かれている。「道三は有力大名の誰に訊かれても、大名自身の病状の様子にしても決して詳しい話はしなかった。相手の調子に乗らず、いつもの平常心を保ち、穏やかな素振りで気を逸らすのであった。そんなわけで相手も激高することはなく、観念した様子になった。無論、医術の腕は見事であったから、ますます信用が高まっていく。その後、道三は茶湯のみにあらず、連歌や香道などにも深く興味を示していくことになっていったので、しきりに将軍はじめ公卿、大名、武将たちが彼にお相手を求めることになっていった」。
「元就の病は『癪聚』と診た。これは俗には『癪』ともいっているが、一般には、気滞の浮沈から来るものである。臓腑の痛みが咄嗟にやってきて苦しめた、とあるから、今日でいう胃痙攣か神経性の胃炎、もしくは潰瘍性(胃潰瘍・十二指腸潰瘍)の疾患である。そこで道三は次のような処方を施した」。続けて、具体的な処方が詳しく記されている。
大坂石山本願寺を攻めた時、信長は太腿に銃弾を受けてしまう。「次のような道三流の処方を行なった。それは、癰疸(危険な腫物)などにはもっとも効くといわれる『返魂湯』という薬方である。生薬には、何首鳥・当帰・木通・芍薬・白芷・茴香・鳥薬・枳殻・甘草を用いる。これに酒水を少量入れて煎じて飲む。ちなみに、何首鳥・当帰・芍薬などは、解熱、鎮痛、補血強壮剤の効果あり。白芷は排膿、浄血、止血作用があり、木通は排尿、消炎朝用がある。また、茴香・鳥薬・枳殻は、健胃、去痰効果あり、甘草は以上の薬味の毒性を緩和する作用がある。何首鳥はツルドクダミの漢名、木通はアケビの漢名、鳥薬はクスノキ科の常緑低木、枳殻はカラタチの漢名である。信長の傷口は、壊死に陥る一歩手前であったので、この薬方はかなり効き目があったと思われる。その後は、かなり速く快方に向かっていったのであった」。
「道三は、後進の指導に絶えず気を配り、その熱意が塾生にも浸透したので、世間からは啓迪院の評価が益々上がっていった。また、道三は日々中国古来の医学に深く学び、多年にわたる臨床経験を積み重ねた。これによって、種々の用薬および補剤が考えられ、道三独自の秘薬がたくさん産まれつつあった。なお、中国古代から伝わる『神農本草経』や『黄帝内経素問霊枢』などの古典医書の精髄と諸子百家の医書を参考に明晰な整理と分析を行い、これらを纏め、その卓見をふんだんに盛り込んだ一大医学書を完成させた。全8巻から編纂された医術書は『啓迪集』と名づけられた。時に天正2(1574)年のことである」。
本書の基本的骨格は歴史的事実に基づき、史料が不足している部分は作家の想像力で巧みに補っているので、道三が身近な存在に感じられる作品となっている。