榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

白拍子女たちは、客と共寝をしていたのだろうか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2139)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年2月20日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2139)

ジョウビタキの雄(写真1~4)をカメラに収めました。サンシュユ(写真5、6)、フクジュソウ(写真7)、ウメ(写真8)が咲いています。因みに、本日の歩数は15,008でした。

閑話休題、私は源義経に愛された静が好きなので、その関係で白拍子に興味を抱いています。そこで、『古代・中世の芸能と買売春――遊行女婦(うかれめ)から傾城(けいせい)へ』(服藤早苗著、明石書店)を手にしました。

「『(白拍子の)起源については、藤原通憲(信西)が舞の手の中の興ある事どもを選び、静の母・磯禅師に教え、白い水干に鞘巻を差し、烏帽子をつけた男舞を舞わせ、神仏の本縁を謡ったと伝える』と、白拍子女は男装で男舞を舞った、ともされ通説化しているようである」。

「後白河院の御所では、猿楽・白拍子などの乱舞が貴族男性たちの日常化した遊びだった。・・・身分秩序を無視して院の御前で『白拍子や女童部』に舞わせたこと自体、儒教的秩序維持を内面化する(藤原)兼実には信じがたいことだったのであろう。しかしながら、身分秩序を院そのものが破っていくことに、変革期の時代性がうかがえよう。後鳥羽院も京内の御所で白拍子女を招き舞わせている」。藤原定家の日記『明月記』にそう記されています。

「院御所のみならず、成立間もない鎌倉幕府にも白拍子女の姿が見られる。著名な源義経の妾の静である。文治2(1186)年4月8日、捕えられ、母と一緒に鎌倉に送られていた静は、義経の子どもを身ごもっており、拒否したにもかかわらず、北條政子の要請で、源頼朝や御家人たちを前に、鶴岡八幡宮で舞う」。

「静が男子を出産し、頼朝の命により、安達新三郎清経により由比浦に棄てられたのは、閏7月29日だったから、鶴岡八幡宮で舞った時点で、静は5ヶ月の身重だった」。

「静は、『安達新三郎宅』に宿泊していた(3月1日)。梶原景茂は景時の男子で当時20歳だった。原文では、『景茂、数盃を傾け、聊か一酔す。この間、艶言を静に通ず』、と描写されている。白拍子静が、義経の妾であるとの矜持を誇り、不特定多数の男性からの艶言、性的誘いは失礼である、と発言している点に注目しておきたい。なお、妾は、ツマと訓ぜられていたことも強調しておきたい」。

「男装の白拍子が12世紀中期に創造される背景には、京には、貴族たちと宴に集い、今様を謡うとともに、『共寝』もする『歌女』と呼ばれる女性芸能者が存在したこと、さらに、変革期の祝祭空間では異性装で祭を言祝ぐ作法が多かったこと、ゆえにこそ信西は歌女に男装の男舞白拍子を教習させ得たのだと思われる。では、この白拍子女たちは、遊女や傀儡女のように客と共寝をしていたのだろうか」。

「水無瀬殿では、後鳥羽院が滞在すると、必ずと言っていいほど白拍子女と遊女が集められている。・・・(白拍子奉行人の)知重は白拍子女の(調達だけでなく)共寝の分配も行っており、分配された貴族は共寝をしてその代償に衣装等を新調して与えるのである。・・・当時、装束は貨幣と同様な意味を持っていた。装束賜与が共寝の代償である」。