最後の世界征服者であるティムールという人物に猛烈な興味が湧いてきました・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2150)】
シロハラの雄(写真1)、ツグミ(写真2、3)、シジュウカラ(写真4)、ハクセキレイ(写真5~9)、オオバン(写真10、11)、アオサギ(写真12)、コイ(写真13、14)をカメラに収めました。
閑話休題、『ティムール以後――世界帝国の興亡1400~2000年』(ジョン・ダーウィン著、秋田茂・川村朋貴・中村武司・宗村敦子・山口育人訳、国書刊行会、上・下)は、「最後の世界征服者」であるティムールが亡くなった1405年から21世紀までのグローバルヒストリーであるが、諸帝国の商業的、地政学的要素と帝国相互の競争関係が、その歴史を動かしてきたと主張しています。
著者は、ティムール帝国を、モンゴル帝国を受け継いだ継承諸帝国の一つと考えています。
私は浅学にして、ティムールについては、教科書的な通り一遍の知識しか持っていなかったが、本書のおかげで、「最も偉大かつ最強の王の一人で、興味関心に応じて議論をふっかける支配者」ティムールという人物に、俄然、猛烈な興味が湧いてきました。
「彼(ティムール)はおそらく1330年代に、チンギス・ハンのモンゴル帝国がその死後(1227年)4つに分裂したうちの一つであった、トルコ・モンゴル系部族連合のチャガタイ・ハン国で、小部族の一員として生まれた。1370年までにチャガタイ・ハン国の支配者となり、1380年から1390年の間に、イラン、メソポタミア(現在のイラク)、アルメニアとジュージア(グルジア)の征服に乗り出した。1390年に彼はロシアに侵攻し、数年後には、(現在のロシア南部の)モンゴル勢力であったキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の省都を攻略した。1398年には、北インドに大規模な侵攻を行い、現地ムスリム政権を倒してデリーを破壊した。次いで1400年に彼は、中東に戻ってアレッポとダマスカスを攻略し(イブン・ハルドゥーンはそこでの殺戮から逃れることができた)、1402年のアンカラの戦いでオスマン朝スルタン、バヤジット一世を捕虜とした。その後にようやく、彼は東方に転じて、未完に終わる最後の軍事遠征に乗り出した」。
「血に飢えた独裁者としての悪名、略奪を目的とした征服の残忍さにもかかわらず、ティムールはユーラシア史上で過渡期の人物であった。彼が行った征服活動は、チンギス・ハンとその息子たちにより構築された大モンゴル帝国を想起させた。その帝国は現在のイランから中国まで、北はモスクワまで広がっていた。それはステップ地帯の大草原回廊に沿って広がるユーラシア中央部における、民族・貿易・思想の大移動を促していた。そしてモンゴル支配は、全般的な経済的拡張の時代に、商業上の、そして知的側面での変化を引き起こす触媒として機能したと言える。モンゴル人は、反ムスリム同盟の構築と、中国人改宗者の獲得を目指した西ヨーロッパからの教皇特使の訪問でさえ受け入れた。しかし、14世紀初めまでには、偉大な帝国連合を保持する努力は、ほとんど崩壊していた。イラン(イル・ハン国)、キプチャク、チャガタイの『ハン国』支配者間での内紛と中国の大元国の崩壊(1368年)は、ユーラシア帝国におけるモンゴルの実験の終焉を画した」。
「ティムールの征服活動は、部分的にはこの失われた帝国を復活させる努力の一つであった。しかし、彼の手法は異なっていた。彼の戦争の大半は、自己の帝国建設の源泉となったユーラシア大陸の大通商路の支配をめぐり、ライヴァルたちを打倒するために企図されたように思われる。また彼の権力は、ステップ地帯の支配よりも『農耕地帯』の統括を基軸としていた。このことは、彼の軍隊が(古典的なモンゴルの代名詞であった)騎馬射手だけではなく、歩兵、重騎兵、さらに象部隊から編制されていたことが示していよう。彼の支配制度は一種の絶対主義であり、そこでは、彼の部族集団の忠誠心と、都市や農村部の臣民層の献身とが均衡していた。ティムールは(多くの称号のなかでも特に)『神の化身』を称し、イスラームの背信者や脱落者への報復を行った。彼は自分の生誕地近くの首都サマルカンドに、征服行為で得た戦利品をつぎ込み、治世の輝きを誇るかのように、建築史上に残る記念建造物を創り上げた。『ティムール』帝国の支配様式は、広大な中央ユーラシアにまたがった帝国観に永続的な影響を及ぼすことになったのである」。
「しかし、彼の残忍さ、軍事的才能、帝国の目的に部族政治を巧みに適応させたことなどにもかかわらず、ティムールが構築した制度は彼の死後、瓦解した。彼自身は直観的に把握していたかもしれないが、ステップ地帯から『農耕地帯』を支配し、モンゴル人の軍事力という旧い基盤の上にユーラシア帝国を構築することは、もはや不可能になりつつあった。オスマン朝、エジプトとシリアのマムルーク国家、北インドのイスラーム諸王朝、そして得に中国は立ち直りが早く、電撃戦によって服属させるのは無理であった。実際にティムールの死は、幾つかの点で、グローバルヒストリーにおける一つの長い局面の終焉を意味した。まず第1に、ティムール帝国は、ユーラシアが『極西』の国々(ヨーロッパ)、イスラームの中央ユーラシア、儒教圏の東アジアに分割される状況を押しとどめる挑戦としては、実際に行われた最後の試みであった。第2に、彼の政治的実験とその失敗は、権力が、遊牧諸帝国から定住諸国家に決定的に移行し始めたことを明らかにした。第3に、ティムールが中央ユーラシアに及ぼした付随的な損害と、部族社会がそこで行使し続けることになった不相応な影響力は、(徐々にではあったが)『旧世界』の重心が、中央部を犠牲にして、極東と極西に有利なように移動するのを助長した。最後に、ティムールの死去は、彼がその支配のため戦ってきた東西ルートという、既存の遠隔地交易のパターンが変化する最初の兆候と時を同じくしていた。彼の死後数十年の内に、サマルカンドから支配する世界帝国という観念は根拠を失った。世界各地への海上アクセスを保障するグローバルな公共財としての海洋が『発見』されたことで、帝国の経済学と地政学は変容した。確かに、新たな世界秩序がはっきりと姿を現すまでには、さらに3世紀を要することになる。しかしティムールの死後、世界征服者としてユーラシア大陸全体の支配者に昇り詰める者は現れず、また『ティムールのユーラシア』が、人々が知っている世界のほとんど全てを包含した時代も終わったのである」。
スケールの大きな試みに挑んだ、意欲的な著作です。