観阿弥や世阿弥は、さまざまな部族のさまざまな藝能を採り入れて総合芸術をつくり上げた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2255)】
ムラサキシジミの雌(写真1、2)、ツマグロヒョウモンの雄(写真3)、アゲハチョウ(写真4、5)をカメラに収めました。カワラヒワ(写真6)、ホオジロ(写真7、8)が囀っています。ノウゼンカズラ(写真9)、アメリカノウゼンカズラ(写真10、11)、ヒマワリ(写真12)が咲いています。
閑話休題、『能から紐解く日本史』(大倉源次郎著、扶桑社)には、私の考えに馴染まないことも書かれているが、能楽小鼓方大倉流十六世宗家の手になるだけに、興味深いことが多々記されています。
「当時の能(藝能者)は後世のように武士階級の保護を受けていたわけではありませんから、生きるために日本全国へ興行をしながら散ってゆきます。ですから物語が日本全国に広がるわけです。さらに、旅した先の土地の物語を聞いた藝能者たちが、こんどは全国の物語をもって大和に戻ってくる。さまざまな交流があって、数多くの物語が育っていったのです。そうして能楽という藝能に大成するのが12、3世紀、というわけですね」。
「藝能民たちが演じたり踊り続けてきたものが、あるとき現れた、観阿弥や世阿弥のような優れた人によって、集大成されていくのです。観阿弥や世阿弥は、さまざまな部族のさまざまな藝能を採り入れて、総合芸術をつくり上げたのです。ベースは当時流行っていた曲舞(くせまい)とし、ある場面は平安時代からある白拍子、ある場面は鎌倉時代に武士や僧侶に流行った早歌(そうが)、という具合に採り入れていった。そして能は、歌あり、踊りあり、台詞を用いたお芝居ありの、今の音楽劇になっていったのです。大和という土地はそういう民族の坩堝だったのです。さまざまな民族が持ち寄った文化の中に藝能もあった。一番近い隣国の朝鮮のもの、欽明朝の560年頃に渡来してきたインドの人たちの音楽もあったでしょう。たとえば古典インド音楽では最後が一拍で打ち終わるのですが、それは能楽も同じです。仏教が入ってくるときにインドや経由地のシルクロード、ベトナム等の音楽も絶対に入ってきているはずなのです。そうして天平勝宝4(752)年の大仏開眼法要(アジア音楽祭)を迎えるのです。シルクロードの東の端に世界の音楽が集結したわけです」。
「(江戸城中の大広間に詰める大名たちは)どんな言葉で話していたのか? これがじつは、『にてそうろう』『ござる』『かしこまり申した』『かたじけのう』『心得た』などの『謡曲や狂言の文言をなぞった共通語』が使われていたのです。いま私たちが『武家の言葉』だと思っている、時代劇の、侍の話し言葉のほとんどが、じつは謡曲・狂言の詞章の『候文』からできているのです。言葉が互いに通じるには、同じ発声・発音・語彙を双方が使えなければなりません。能、謡曲は『武家の式楽』ですから、全国の大名から末端家臣まで、皆、謡曲を謡い、暗誦しています。逆にいえば、ラジオやテレビなどのメディアがない江戸時代は、能だけが全国隅々まで浸透したマスメディアだったのです。この謡曲の詞章を頭に刻みつけることで、武士たちは方言ではない、全国共通の語彙や語感を身につけていったということです。この『謡曲が共通語』という状況は明治のはじめまでも残っていたのです。明治政府が学校教育を全国統一するまで、他国他郷の人と話すには皆が謡曲を参照していた、ということですね」。