科学史は面白いぞ!・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2509)】
ジンチョウゲ(写真1、2)の蕾が膨らんできました。ウメ(写真3)、シダレウメ(写真4~6)が芳香を放っています。因みに、本日の歩数は11,535でした。
閑話休題、『高校世界史でわかる科学史の核心』(小山慶太著、NHK出版新書)で、とりわけ興味深いのは、「顕微鏡学者レーウェンフックと画家フェルメール」、「ロンドンのコーヒーハウス」、「量子力学をつくった若手の活躍」の3つです。
●顕微鏡学者レーウェンフックと画家フェルメール
「(オランダのデルフトで)織物商を営み、後に市の役人もつとめたレーウェンフックという人物がいた。彼の趣味は手製の高倍率の顕微鏡を用いて、肉眼では捉えられない微小な対象を観察することであった。顕微鏡という『文明の利器』を駆使してミクロの世界に踏み入ったレーウェンフックは、1670年代の半ばから、藻類、原生動物(アメーバやゾウリムシなどの単細胞生物)、菌類、輪虫、細菌などの微生物を次々と発見している。・・・また、レーウェンフックは赤血球や精子、植物細胞の観察にも成功している。・・・ところで、レーウェンフックと同じ1632年、デルフトでもう一人、歴史上有名な人物が生まれている。『真珠の耳飾りの少女』や『デルフト風景』などの作品で知られ、日本でも人気の高い画家のフェルメールである。そのフェルメールが描いた人物画に、『地理学者』と『天文学者』の2枚がある。1981年、アメリカの美術史家ウィロックJr.が、その2人のモデルはレーウェンフックではないかという説を発表している」。この説を実証的に論じた『フェルメールと天才科学者――17世紀オランダの「光と視覚」の革命』(ローラ・J・スナイダー著、黒木章人訳、原書房)を読んで感銘を受けた私は、この説を支持しています。
●ロンドンのコーヒーハウス
「1684年1月のこと、ロンドンのとあるコーヒーハウスに王立協会の3人のメンバーが集まり、議論を重ねていた。3人とは同会会長をつとめたレン、事務局長のフック、そして若い天文学者ハレーである。議論していた内容は天体の運動に関する問題であった。『太陽から距離の2乗に逆比例して減少する力(重力)の作用を受けるとき、惑星はどのような軌道を描くのか』について、意見を交換していたのである。この問題に強い関心を抱いていた彼らであったが、誰も数学的に天体の運動を導き出すことはできておらず、この日も明快な答えを見出せぬまま、コーヒーハウスを後にした。そこで、その年の5月、ハレーはケンブリッジを訪れ、トリニティ・カレッジのルーカス講座教授であったニュートンに、この問題をぶつけてみた。このとき、ハレーはニュートンの返事を聞いて腰を抜かすほどびっくりする。ニュートンはいともあっさりと、その件ならすでに解決済みであると答えたからである。実際、その半年後、ハレーのもとにニュートンから『回転する物体の運動について』と題する論文が送られてきた。そこには、惑星は重力の作用により、太陽をひとつの焦点とする楕円軌道を描くことの証明が綴られていた。コーヒーハウスでレン、フックと議論し合った難問がみごとに解かれていたのである。これに感動したハレーはすっかりニュートンに心酔し、その内容をさらに詳しく書物にまとめて発表してほしいと熱く訴えた。こうした2人の出会いがきっかけとなり、1687年、近代科学の金字塔といえる『プリンキピア』が出版されることになった」。なお、ハレーがその回帰を予言した彗星は「ハレー彗星」と呼ばれています。
●量子力学をつくった若手の活躍
「20世紀に入り、物理学に『革命』とも呼べる大転換をもたらした人々の顔ぶれを眺めてみると、当時の大家は一人もおらず、皆とても若いことに気がつく。量子力学の形成に寄与した主な理論家がそれぞれの業績をあげた年齢を見てみると、それがよくわかる。この中では、波動力学を提唱したときのシュレディンガーの年齢がやや高いが――それでも39歳というのはまだ若いといえる――、他の人々は20代後半から30そこそこで、科学革命の先導役となったわけである。彼らは皆、古典物理学の常識、固定観念に束縛されずに済んだ世代であり、自分たちの発想がどんなに奇妙に思われても、目の前に現れた不思議を直視し、自由で柔軟な思考を展開して、真理をつかみとったのである。蓄積した知識の量よりも独創性が物をいうのが、自然科学、とりわけ物理学の理論分野の特徴であるが、古典論の殻を破った若手たちの活躍はまさにそれを如実に物語っている」。因みに、光量子仮説のアインシュタインは26歳、原子構造論のボーアは28歳、電子の波動性のドゥ・ブローイは31歳、波動力学のシュレディンガーは39歳、不確定性原理のハイゼンベルクは26歳、相対論的波動方程式のディラックは26歳のときの業績です。