引用だらけのモンテーニュに親近感を覚える私・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2523)】
カワヅザクラ(写真1、2)、カンヒザクラ(ヒカンザクラ。写真3、4)、ツバキカンザクラ(写真5~7)、ヨコハマヒザクラ(写真8~10)、オオカンザクラ(写真11~13)が咲いています。ミツマタ(写真14~16)が芳香を放っています。因みに、本日の歩数は15,435でした。
閑話休題、『フランス文学の楽しみかた――ウェルギリウスからル・クレジオまで』(永井敦子・畠山達・黒岩卓編著、ミネルヴァ書房、シリーズ・世界の文学をひらく)で、とりわけ印象に残ったのは、『エセー』、『ボヴァリー夫人』、『死都ブリュージュ』の解説です。
●ミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』
「モンテーニュが現代日本に行き反って、『エセー』のような書き方で大学の課題レポートを提出したら、教師から叱られるはずだ。これは『剽窃』でしょう、と言われかねない箇所が目に付くからだ。つまり彼は、著者の考えと自分の考えは区別して書き、参照するときは出典をきちんと明記し・・・といった『引用』の作法に無頓着だった。もちろん、一目でこれは引用だな、とわかる書き方がなされている場合もある。しかし彼は往々にして、古代ギリシアやローマの著述家の文言をあたかも自分のものとして地の文に流し込んでしまう」。この件(くだり)を読んで、私は嬉しくなってしまいました。常々、あなたの書評は引用が多過ぎると女房から非難されているからです。『エセー』が私の愛読書なのは、こういう親近感のなせる業だったのかもしれません(笑)。
●ギュスタヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』
この作品は、免許医シャルルと結婚したエンマが、結婚生活に失望し、不倫に走る物語だが、「一方、同じストーリーをエンマの夫シャルルの側からたどってみれば、まったく別の物語が浮かび上がってくる。・・・ある日エンマとの『運命の出会い』が起こり。最初の妻の死後、シャルルはエンマとの結婚にこぎつける。そしてエンマとはまったく逆に、結婚生活の中に完璧な幸福を見出し、すっかり満足してしまう」。
「シャルルの物語がふたたび動きはじめるのは、エンマの死後だ。彼には妻の自殺の理由がどうしても理解できない。そして理解できないことに苦しみつつ、失われた幸福の思い出にどこまでも執着しながら、ひっそりと死んでゆく。エンマの人生とシャルルの人生は、夫婦でありながら正反対の方向を向いており、まったく重なり合わない。ふたりの物語をたどってゆくとき、人間とはこんなにもお互いに理解し合えないものなのか、と驚かされるほどだ」。57年前に『ボヴァリー夫人』を読んだ時は、結婚前だった私には夫の立場から読むなどということは思いつきもしませんでした。今度は、シャルルの側に立って再読しようと考えています。
●ジョルジュ・ローデンバックの『死都ブリュージュ』
私は、本書を読むまで、この作家も作品も知りませんでした。以前、オランダに出張した時、憧れていたベルギーのブリュージュまで足を延ばしたことがあります。この小説は、そのブリュージュが、主人公が死んだ妻と瓜二つの女性と出会う舞台になっているではありませんか。早速、私の「読むべき本」リストに加えました。