森鴎外もドイツの恋人エリーゼも日本で結婚するつもりだった・・・【山椒読書論(774)】
長らく謎とされてきた森鴎外の『舞姫』の悲劇のヒロイン、エリスの正体を突き止めた六草いちかは、私にとって尊敬の対象である。その著『鴎外の恋――舞姫エリスの真実』、『それからのエリス――いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』は私の愛読書であるが、その第3弾ともいうべき『鴎外「舞姫」徹底解読――すべてのナゾがこれで解けた!!』(六草いちか著、大修館書店)も期待を裏切らない内容であった。
著者による『舞姫』の「鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつつ泣くひとりの少女あるを見たり」、「父は死にたり。明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯へだになし」、「少女は少し訛りたる言葉にて言ふ」などの文章の解読部分が充実しているのは言うまでもないが、著者独自の設問もなかなか興味深い。
例えば、「もしもエリスも一緒に日本に帰ったら・・・その旅費はいくら?」には、こういうことが書かれている。「『舞姫』読者の多くが感じる、そこまでの愛があるならなぜ豊太郎(森林太郎<鴎外>がモデル)はエリスを日本に連れて帰らなかったのかという疑問。最初から共に帰国する可能性についてエリスと話し合っていたなら、エリスが裏切られたと絶望し発狂することもなかったし、法的にはエリスが日本に来ることも何ら問題なく、実際にエリスのモデルである鴎外の恋人は、鴎外の帰国に合わせて来日している。ここは鴎外の小説家としての創意工夫がなされた点」。
「『舞姫』は創作か実話か」には、こうある。「『舞姫』には鴎外の体験が投影されている。それはドイツ留学を果たした鴎外が垣間見た日常の風景だけでなく、自身の恋愛体験も含まれる。その恋も悲恋に終わり、鴎外自身もまた、心の整理をつけるために執筆していることから、この物語は悲恋をもって幕を閉じなければならなかった。しかしながら書かれている事柄のすべてが事実ではない。いくつもの創作部分が織り込まれ、純文学作品として仕上がっている」。
現実の鴎外と恋人との「決定的な別離は相沢(親友の賀古がモデル)の言動が原因だが、来日した恋人を鴎外の気持ちを無視して無理やり帰国させたのは親であり、すべきではない過ちだったと、後年に鴎外の母親は後悔の念を語っている」。鴎外の母が二人を無理やり別れさせたことを後悔していたとは! 迂闊にも、本書で初めて知ったのだ。
「鴎外の恋人は、鴎外を追って来日した?!」では、意外な事実が明かされている。「恋人が来日したのは間違いないが、追いかけてきたわけではない。それどころか、恋人が乗った船のほうが先に出航しているのだ。・・・恋人はベルリンを発つ鴎外を見送り、数日経ってからドイツ国内のブレーメン港に向かい、日本行きの便に乗り込んだ。実際には、恋人の船のほうが一足早い7月25日に出航し、鴎外の船が出たのはその4日後の7月29日。ブレーメン港からの便は、ヨーロッパ大陸をぐるりと回り込んでマルセイユ付近を通過するルートであるため、鴎外の乗る船よりも航海日数がかかり、遅れて出発した鴎外の船の方が先行する格好となり、9月8日に横浜港に到着した。エリーゼの乗った船がたどり着いたのは4日遅れの9月12日だった。到着日だけを見ると、『鴎外を追って来日』の表現に間違いはないが、出発日を見ると、『追いかけてきた』の解釈にはならない」。そうだったのか!
読み進めていくと、さらに興味深いことが記されている。「エリーゼの渡航申請は鴎外が手伝ったことだろう。日本への渡航理由はなんと書かれていたのだろう。エリーゼは片道切符で来日していた。『婚姻のため』と記されていた可能性は高い」。「鴎外を乗せた列車がベルリンを離れる瞬間まで、二人の前途は愛と夢と希望に満ち溢れていた。ところが、ベルリンを出発してからの車中での(上司の)石黒とのやりとりがきっかけで、突然、悲劇が始まった。・・・この後の成り行きから判断すると、鴎外はこのとき初めて恋人を日本に呼び寄せる予定であることを石黒に伝え、二人の結婚の意思を知った石黒は難色を示し、痛ましい状態になるまで鴎外を追い込んでいったのだろう。鴎外に恋人がいたこと自体は石黒も知っていた。しかし石黒は、自身がそうしたように鴎外も恋人と別れた上で帰国するものと思い込んでいた」。鴎外もエリーゼも日本で結婚するつもりだったのだ。
あの世の鴎外が六草の著作を読むことができたら、自分のエリーゼに対する思いが一時の遊び心ではなく、真剣に結婚を考えていたことを明らかにしてくれたと感謝したことだろう。