榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

江戸無血開城の功を勝海舟が山岡鉄舟から奪い取ったという説の根拠とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3038)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年8月12日号】 情熱的読書人間のないしょ話(3038)

ヒガンバナ(写真1、2)が咲き始めました。ナツズイセン(写真3、4)、キツネノカミソリ(写真5)が咲いています。イネ(写真6~9)が実っています。トノサマバッタ(写真10)の死骸を見つけました。カワラヒワの若鳥(写真11、12)、ハシボソガラス(写真13、14)。ダイサギ(写真15)をカメラに収めました。

閑話休題、高校の教科書『詳説 日本史B』(山川出版社)には、こう記されています。「徳川慶喜を擁する旧幕府側は、1868(明治元)年1月、大坂城から京都に進撃したが、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ。慶喜は江戸に逃れた。新政府はただちに、慶喜を朝敵として追討する東征軍を発したが、江戸城は、慶喜の命を受けた勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の交渉により、同年4月に無血開城された」。

ところが、この江戸無血開城の功を勝海舟が山岡鉄舟から奪い取ったという説が根強く存在しています。そこで、鉄舟がどういう功を上げたのか、海舟がどのようにその功を奪ったのかを知りたくて、『江戸無血開城――本当の功労者は誰か?』(岩下哲典著、吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)を手にしました。

本書の主張は、このように整理することができます。

●江戸無血開城の最大の功労者は鉄舟である。
「徳川慶喜の助命(救解)と徳川家の家名存続と旧幕府の武装解除、すなわち武器・弾薬、軍艦、江戸城の引き渡し(江戸無血開城)は、慶応4(1868)年3月9日の、山岡鉄舟と西郷隆盛の駿府会談で、ほぼ決まったからである。鉄舟がその結果を持って江戸に戻り、13日と14日に徳川家の代表たる海舟・鉄舟と西郷の最終確認がおこなわれ、細部の詰めがなされて、それを持って西郷が、京都に赴き、新政府の最終決定がなされたのである。『江戸無血開城』は江戸での海舟・西郷会談ではなく、駿府の鉄舟・西郷会談でほぼ決まったのである」。

●鉄舟が最大の功労者であることは慶喜も認めている。
「『江戸無血開城』で最大の恩恵を被った慶喜が、自身の助命と家名存続の『一番槍』は鉄舟であると認めていた」。鉄舟が書き留めた文書にそう書かれているというのです。

●駿府に鉄舟を派遣したのは海舟ではなく、慶喜である。
「慶喜は鉄舟を呼び出し、駿府行きを直に命じた。その後、鉄舟は、初めて海舟と面会し、海舟と相談して、海舟が身柄を預かっていた薩摩藩士益満休之助を伴い、東海道を下ったのである。官軍がひしめく街道をさけながら、しかし時には堂々と進み、3月9日、駿府に駐留していた官軍参謀西郷隆盛に面会した」。

●江戸における西郷との会談には、海舟だけでなく鉄舟も臨席している。
「(3月)14日の2回目の会談では、海舟の傍らに鉄舟がいたのである。もちろん13日にも鉄舟はいた」。

●よく知られている明治神宮外苑・聖徳記念絵画館所蔵の「江戸開城談判」の絵に、西郷と海舟は描かれているのに、鉄舟が描かれていないのには理由がある。
「(昭和10<1935>年に結城素明によって描かれた『江戸開城談判』の)寄進・奉納者は誰か、侯爵西郷吉之助と伯爵勝精(慶喜十男、勝家を相続)の2人のみ。それぞれ西郷隆盛と海舟の後継者である。・・・(いるはずの鉄舟が)描かれていない。なぜか。この絵画が、制作された時、山岡家は財政的に厳しい状態で、この絵画に関与できない状態だったからだと思われる。なので、声を大にして言う。あの絵は、事実のほんの一面しか伝えていない。あの場に鉄舟が居たのに描かれていないのだ」。

著者・岩下哲典の気持ちも分からないではないが、いささか海舟に厳し過ぎるというのが、私の率直な見解です。なぜならば、私の企業勤務時代を振り返っても、部下の下交渉を経て、上司が出席する場で正式に交渉が成立した場合、いちいち部下の果たした役割を明記することはないからです。