古典とは敬遠するものではなく、敬愛すべきものだ・・・【山椒読書論(122)】
『古典力』(齋藤孝著、岩波新書)を読むと、なぜ古典力を身に付ける必要があるのかが、はっきりする。
著者の言う「古典」とは、もちろん「古文」ではなく、思想・哲学・科学・文学など、さまざまな領域の人類の遺産と呼べるような著作を意味している。
先ず、古典を読むためのコツ10カ条が挙げられている。①一通りの知識を事前に得る、②引用力を磨く、③さかのぼり読み――古典の影響を読み取る、④パラパラ断片読み――全部を読もうとしない、⑤我田引水読み――自分の経験に引きつける、⑥つかり読み――作品世界にどっぷりつかる、⑦クライマックス読み、⑧演劇的音読、⑨バランス読み、⑩マイ古典の森をつくる――と、具体的である。
次に、4人の偉大な先人の技に学ぼうと呼びかけている。渋沢栄一からは論語の活かし方を、孔子からは古典が繋ぐ仲間意識を、ゲーテからは偉大なものを体験する素晴らしさを、小林秀雄からは古典を固定観念から解き放つ必要性を――盗んでしまえというのだ。
例えば、「小林秀雄は『徒然草』という4ページほどの文章で、徒然草、および兼好法師の『顔』は特別なものだよ、と言っている。たとえば有名な冒頭。『徒然なるままに』という書き出しから、後世の人が『徒然草』という名を付けた。感じが良い上に覚えやすい、一見上手なネーミングに見える。しかし、落ちついて最後まで、この冒頭の一文を読めば、『怪しうこそ物狂ほしけれ』というのだから、『徒然草』という言葉から受けるイメージとは、ずいぶん違う。『物狂ほし草』というタイトルでは人気は出なかったかもしれないが、筆を手にしたとたん、書きたいことであふれて苦しくさえなってしまう兼好の気持ちは、この方がよく伝わる。洞察力がありすぎて苦しくさえなる。この感じが『徒然草』というおしゃれなタイトルでは、かえって伝わりにくい。小林は、このタイトル付けについて、『どうも思い付きはうま過ぎた樣である。兼好の苦がい心が、洒落た名前の後に隠れた』と指摘し、『兼好にとって徒然とは<紛るる方無く、唯独り在る>幸福感並びに不幸を言う』と書いている」といった具合だ。
そして、メイン・イヴェントとして、「マイ古典にしたい名著50選」と「おまけのプラス50選」が選び出されている。
「作品世界にどっぷり浸かる」、「たった一冊の本が、時代を、社会を変えた」、「古代の世界は骨太!」、「書き手の感性や人となりを味わう」、「人間のおろかさ弱さを見つめる」、「社会の中の人間」、「生きる覚悟、生の美学」にグループ分けされた著作の一冊一冊に簡にして要を得た説明が付されている。実に至れり尽くせりである。
著者の熱意に煽られ、私自身、これは読んでおかねばと付箋を付けた本が、17冊に上ってしまったのである。