ウクライナとロシアはどういう関係の歴史を歩んできたのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(4019)】
オウバイ(写真1、2)、ハナニラ(写真3)が咲いています。ミツマタ(写真4,5)が濃厚な香りを放っています。写真6の漢字は何と読むのでしょう? 因みに、本日の歩数は9,515でした。【「甃」は「いしだたみ」と読むようです】







閑話休題、ウクライナとロシアはどういう関係の歴史を歩んできたのかを知りたくて、『ウクライナの形成――革命期ロシアの民族と自治』(村田優樹著、東京大学出版会)を手にしました。
かなり学術的な内容だが、蛮勇を振るってまとめると、こういうことになるでしょう。
●「ウクライナ」なるものは、レーニンの発明であるという通俗的ロシア民族主義の主張は、過度な単純化である。
●ソヴィエト政権にかかわるもの全てを反ウクライナ的「ロシア化」権力と見做す通俗的ウクライナ民族主義の主張も、過度な単純化である。
●レーニンを始めとする共産党指導者による「ウクライナ」の制度化やウクライナ化の推進は、ウクライナ民族主義者がキーウで既にそれを実行していたからこそ、その対抗措置として実現したのである。
●他方、1920年代のウクライナは、多くの点で、帝政末期のウクライナ運動の指導者が求めていたことを実現しており、実際に彼らはウクライナ民族主義的なソヴィエト体制の建設に従事していた。ソヴィエト連邦の国制と民族政策は、マルクス主義者の民族理論の系譜だけでなく、ロシア帝政末期の民族自治・連邦制を巡る論争と、革命期のその実践、ボリシェヴィキによるその成果の簒奪、という国制的変動の帰結でもあった。
●1930年代のスターリニズムの時代にウクライナ化政策は大幅に見直され、ロシア語やロシア文化の支配的地位が復活した。ウクライナ化を主導した党内の民族共産主義者や、かつてラーダに属した道標転換派の知識人らは、多くがテロルの犠牲となった。【「ラーダ」とは、ウクライナの自由主義勢力の言論活動の中心となったウクライナ語日刊紙、ならびに、進歩主義者協会の組織。「道標転換派」とは、ソヴィエト国家が社会主義とウクライナの民族的発展をともにもたらすことを期待したグループ】
●他方、ウクライナ民族を基幹民族とするウクライナ共和国という制度的基礎は、第二次世界大戦期の西ウクライナの併合を経て、1991年まで維持された。このことが、独立したウクライナがウクライナ人中心の民族国家として歩み出す前提となった。
