ウクライナ史は敗北の歴史だといわれるが、ウクライナ頑張れ!・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3057)】
ホウセンカ(写真1~3)が咲いています。我が家の庭師(女房)が庭から摘んできたシソ(写真4)が冷奴や素麺の味を引き立てます。今宵は満月(写真6)です。因みに、本日の歩数は11,137でした。
閑話休題、理不尽なロシアのウクライナ侵攻をより深く理解するために、『ウクライナ・ベラルーシ史』(中井和夫著、山川出版社)を手にしました。
「ウクライナの歴史のなかで重要な年、日付をあげると、第1に988年キエフ大公ヴォロディーミルがキリスト教受洗をした年、第2にモンゴル軍の来襲でキエフが陥落した1240年12月16日、第3に1654年1月8日、コサックのヘトマン・ボフダン・フメリニツキーがロシアを宗主国とし、臣従を表明したペレヤスラフ協定調印の日。第4に1709年6月27日、コサックのヘトマン・イヴァン・マゼッパがポルタヴァの戦いで、ピョートル一世(大帝)に敗北した日。第5は20世紀にはいって1918年1月29、30日、キエフから130キロのクルティ駅周辺で、ソヴィエト・ロシア軍4000人と、ウクライナの学生を主体とする中央ラーダ部隊500人が戦い、学生部隊の半数が戦死したクルティの戦いの日。そして第6は大飢饉の1932年から33年。第7は1941年6月22日、独ソ戦開始の日。第8は、1986年4月26日のチョルノービリ(チェルノブイリ)原発事故。第9は1991年8月24日、ウクライナ独立の日。そして最後は2022年2月24日、ロシア軍侵攻の日である。ペレヤスラフ協定は、臣従を決めたのであって、戦って敗れたわけではないが、マゼッパ、クルティはウクライナ側の戦争での敗北である。飢饉とチョルノービリも戦争ではないが、ウクライナに大きな被害をもたらした。最近のロシアとの戦争は終わっておらず、本稿執筆時の2023年3月時点においても続いている。ウクライナ史は敗北の歴史だといえるかもしれないが、『ウクライナ未だ死なず・・・我らコサックの生まれ(ウクライナ国歌)』を、ウクライナの人々は、ミサイルが飛ぶ空の下で、あるいは地下シェルターのなかで、歌っている」。
大飢饉について――。「1931、32年の不作、集団化とクラーク(自営農家)撲滅政策をめぐる農村における戦争状態、家畜の大幅な減少、そして極端に苛酷な穀物徴発と強制措置は、ウクライナ農村を徹底的に荒廃せしめ、穀物不足はその破局、大規模な飢饉をむかえることになる。ソ連政府が飢饉の存在を否定しつづけ、それゆえいかなる食糧援助もなされなかったことが、犠牲者の数を大きくしたことは疑いえない。スクリプニクは自殺の直前、ウクライナと北カフカスで800万の餓死者がでたと語っている。多くの研究者が犠牲者の数をさまざまな方法で推定しているが、少なくとも当時のウクライナ人口の1割以上、400万から600万の人々がこの飢饉によって斃死したとみられる。ウクライナ農村の経験した惨状は、世界史的にみても、世界大戦と、中国における『大躍進』、人民公社政策による犠牲を除けば、前代未聞、空前絶後のものであったといわねばならないだろう」。
2014年の「マイダン革命」の「騒乱のなかで身の危険を感じたヤヌコーヴィチ大統領は、2月22日にキーウを脱出し、ウクライナ東部へ逃れ、その後ロシアに亡命した。・・・(これを受けた)選挙で、ユーシチェンコ政権で外相を務め、菓子メーカー『ロシェン』のオーナーで『チョコレート王』と呼ばれた富豪、オリガリヒの一人であるポロシェンコが第1回投票で54%の得票で第5代大統領に選ばれた。・・・クリミアに続いて、ドネツィクとルハンスクでも親ロシア派がウクライナからの独立に動いた。・・・2019年の大統領選挙の決選投票では、現職のポロシェンコがヴィロディーミル・ゼレンスキーに敗れた。ゼレンスキーの得票率は73.22%であった」。
ウクライナ頑張れ! ゼレンスキー頑張れ! ウクライナ国民頑張れ!