平安朝の上流貴族夫人は、見た、怒った、書いた・・・【山椒読書論(187)】
『蜻蛉日記(かげろうのにき)』(道綱母著、上村悦子全訳注、講談社学術文庫、上・中・下巻。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、平安時代に書かれた日記体の女流文学であるが、その女性心理が遠い昔のこととは思えないほど現代と似通っていることに驚かされる。
作者は、当時の常として本名が伝わっていないため、道綱母(みちつなのはは)と呼ばれている。彼女は、当時、本朝三美人の一人と称されるほどの美貌と、後にその歌が小倉百人一首に採用されるほどの歌才の持ち主であった。
父母に大事に育てられた彼女は、18歳の時、名門貴族の三男で8歳年上の藤原兼家(後に一条天皇、三条天皇の外祖父となる。道長の父)に求婚され、結婚生活に入る。新婚当時は文字どおりの蜜月であったが、その後は浮気性の夫に悩まされ続ける。この作品には、彼女が21年間に亘る結婚生活で味わわされた嫉妬、羨望、苦悩、不安、悲嘆、憤怒の情が満ち満ちている。
これには、彼女が生きた時代と、彼女の性格が大きく関わっている。当時の貴族社会は一夫多妻の招婿婚で、夫は多くの妻たちの中の一人の邸を夜、訪れ、翌朝早く帰っていくのである。このように女性が忍従を強いられる時代にあって、宮仕えの経験がなく世間知らずで、己の類稀な美貌、歌才と誠実な愛情に矜持と自信を持つ彼女は、夫にも100%の愛情を希求し、それが叶えられないことに苦悩するのである。「兼家の訪れが絶えると『なぜ来ないの』と言わずにいられない」女性なのである。
「石木の如く明かす」の一節の「現代語訳」は、「『伺わないこと、たしかに私の怠慢には相違ないが、実際、公務繁忙の時でね。ところで今夜伺いたいと思うがご都合どうだろう、こわごわながら』などと便りがある。『気分がすぐれませぬ時でお答え申し上げかねます』と言ってやって、(来訪を)すっかりあきらめていると、平気な顔でやって来た。あきれかえっていると、けろりとしていちゃつくので、とてもいまいましくなって、ここずっとがまんにがまんを重ねてきたうらみつらみをぶちまけると、一言も弁解もせず、たぬき寝入りをきめこんだ。そして拍子ぬけした私が口をつぐむと謹しんで拝聴しているうちに不覚にも寝こんだが今ふと目をさましたという体(てい)でぬけぬけと、『どれ、もうおやすみかね』と言って笑い、きまりがわるいくらい愛撫するが、その手には乗りませんと私は、体を固くして一晩過ごしたので、翌朝物も言わずプイと帰ってしまった」、これに対する「解説」は、「これらの文によって洒脱、闊達、諧謔に富んだ明朗磊落な兼家の性格、血のめぐりがよく、女をあしらうことに慣れ切ったその道のベテランの面目が丸出しであり、また気位が高く、世間知らずのきまじめな作者の気質がうかがわれ、短文中に性格の異なった夫婦間の王朝式トラブルが躍動して描かれている。・・・サービスが悪く居づらいように仕向けながら来ないと嘆く。兼家の愛情をぜひ得たいと願うのにそれがかなえられないことに対する作者の幼いお姫さま流の抵抗で、こうすれば兼家が反省して毎夜訪れるだろうと単純に考えた、男の心理を解せぬ作者の誤算である。さすがの兼家も作者の自我の強さに腹を立ててプイと帰るのも当然であろう」――となっている。道綱母や兼家だけでなく、この訳者もどうしてどうして、なかなかの兵(つわもの)である。
「(兼家が)夫らしい義務を尽さず、作者をほうりっぱなしにして、勝手なときに夫の権利のみを行使する、身勝手さががまんできない。反発したくなるのも無理がない」と、作者に同情しながらも、「作者の何よりの宿望は生涯兼家の夫人として世人から一目を置かれることと、(一人息子の)道綱が兼家息として栄達し大臣の座にも就くこと」だと、訳者の筆は厳しい。「夫の長期の夜離(よが)れ(夜の訪問が途絶えること)に(侍女たちに対する)恥かしさと欲求不満に堪えかねて、ただもう死んでこの世から姿を消したいと作者はいちずに思いつめたが、道綱のことを考えると後ろ髪をひかれて決意も鈍る」のであった。
「やや神経質ではあったが、貞節、誠実、純粋、しとやかで、たしなみの深い、美しい」妻が、孤閨(独り寝)の寂しさ、辛さを赤裸々に綴った『蜻蛉日記』が、少し後の清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。