こういう書評家がいるとは、迂闊にも知らなかった・・・【山椒読書論(255)】
私は読売新聞を取っていないので、橋本五郎が読売新聞の書評欄を長期間、担当していることを知らなかった。
そういうわけで、『「二回半」読む――書評の仕事 1995‐2011』(橋本五郎著、藤原書店)で初めて著者の書評に接したのだが、いずれも簡潔で訴求点が明快である。
例えば、黒住真著の「近世日本社会と儒教』を評した「仁斎と徂徠の『道』追究」では、「仁斎と徂徠の思想形成にはどんな時代と個人的な経験があったのか。二つの『巨星』の間では何が引き継がれ、何が否定されたのか。実に丹念に分析の錨が下ろされている。『仁』についての次のような解説を読むと、儒学へ惹かれる気持ちを禁じ得なくなってくるのである」といった具合である。
坂本多加雄著『坂本多加雄選集』(1・2)を取り上げた「たおやかな複眼的思考」では、「3年前、52歳の若さで忽然として去った坂本多加雄の1200ページを超える論文集に流れているのは『精神のしなやかさ』だ。たおやかなまでに複眼的な思考が、ここにはある」。
池田晶子著『悪妻に訊け――帰ってきたソクラテス』の「現代を鮮やかに一刀両断」では、「ソクラテス:私は生涯に一冊の本も書かなかったが、プラトン君が忠実に再現してくれてねぇ。今度は池田君といううら若き女性哲学者が、二千四百年ぶりによみがえらせてくれたよ。 書評家:それにしてもさすがですね。いま流行の『ソフィーの世界』はこてんぱんだし、若い人には教祖的存在の柄谷行人は『何にもわかっちゃいない』と一刀両断だし、真正の保守主義者を名乗る西部邁には『慌てちゃいかん』と叱っているし・・・」。
遠藤展子著『藤沢周平 父の周辺』に対する「妻との会話は『あいうえお』」では、「著者が幼稚園児の頃、近所のおばさんに『ママハハだから大変だね』と言われた。帰って母に聞いた。『ねえ、ねえ、ママ。ママハハって何?』。母は答えた。『ママハハっていうのはね、ママと母と両方だから、普通のママより二倍すごいママなのよ』」。こういう書評に出会ったら、誰だって、『藤沢周平 父の周辺』を読まずにいられなくなるだろう。
そして、著者の書評を書く姿勢が何とも好ましいのだ。「自分にできることは何かとなれば、徹底して読む以外にはない。書評する本は必ず『二回半』は読むことにしている。赤鉛筆を持って、まず通読する。次に赤線を引いたところを抜き書きしながら、もう一度読む。そして抜き書きしたメモを読みながら構想を練る」。「私が(読売新聞の書評欄で)取り上げたいと思う基準は決まっている。自分が感動したもの、是非とも読者に読んでほしいと思うもの、ということに尽きる。『けなす書評』も成り立つだろう。しかし、私はその道は取らない。読者が買って損はしなかったと思ってほしいからである」。「書評の楽しみは、自分の思いをそっと忍ばせることができることだ。『批評とは他人をダシに自らを語ることである』と言ったのは確か小林秀雄だが、書評でも同じだと思う」
――全く、同感である。