榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ビジネスパースンが時代小説に惹かれる理由・・・【リーダーのための読書論(30)】

【医薬経済 2009年9月1日号】 リーダーのための読書論(30)

歴史小説と時代小説は分けて考えるべきと、私は思っている。諸説があるが、私なりの分類では、海音寺潮五郎、井上靖、新田次郎、司馬遼太郎、永井路子、吉村昭、童門冬二、津本陽、有吉佐和子、堺屋太一、宮城谷昌光などの作品は歴史小説、吉川英治、大佛次郎、山本周五郎、松本清張、池波正太郎、藤沢周平、平岩弓枝、佐伯泰英、山本一力、乙川優三郎、諸田玲子、宮部みゆきなどのそれは時代小説となる。分類はさておき、昨今、新しい息吹を感じさせる時代小説が登場していることに驚かされる。

いのちなりけり』(葉室麟著、文藝春秋)は、秀逸な時代小説にして、夫婦とは何か、愛とは何かを考えさせられる上質な恋愛小説でもあるという不思議な作品だ。

水戸(徳川)光圀、佐々介三郎(助さんのモデル)、安積覚兵衛(格さんのモデル)、徳川綱吉、柳沢吉保、吉良上野介、熊沢蕃山、山本常朝といった多彩な歴史上の人物が登場するが、いずれも脇役に過ぎない。

主役は、元禄期の水戸藩と幕府の暗闘に巻き込まれ、数奇な運命を辿ることになる雨宮蔵人(くらんど)と咲弥(さくや)である。蔵人は、京で公家の用心棒を務める肥前小城藩(現・佐賀県)脱藩浪人、44歳。咲弥は、その才識と美貌で「水戸に名花あり」と謳われる水戸家の奥女中取締、38歳。この二人は夫婦でありながら一度も結ばれることなく、遠くに引き裂かれている。

光圀から16年前に離れ離れになった蔵人を呼び寄せるよう命じられた咲弥。咲弥からの一通の書状で死地になるかもしれない江戸に向かって走る蔵人。死の危険を冒してでも、あの方は必ず駆けつけてくれるだろうと信じて待つ女と、大事に思っている人に会うため、死ぬ覚悟で一路、江戸に向かって東海道をひた走る男。東海道を疾駆する蔵人の胸中にあるのは、ただ咲弥に会いたいという思いだけである。「四十を過ぎても女人をかように思い続けているとは、わしは愚か者だな」と思うのだが、胸の思いはどうにも抑え難い。咲弥に会わねば死ねない、と思う。

蔵人は江戸に着くまでに敵から四度も襲われるが、「何度生まれ変わろうとも咲弥殿をお守りいたす。わが命に代えて生きていただく」と、その気持ちはいささかも揺るがない。自分のために命を捨てようとしている男と生死をともにしようとする女の、正に真実の恋の物語なのだ。著者が言うように、これは「走れメロス風シラノ・ドゥ・ベルジュラック」の日本版なのである。

既に一家を成している作家の作品の中からも、印象に残る一編を挙げておこう。『邯鄲(かんたん)』(乙川優三郎著、集英社文庫『武家用心集』所収)の主人公・津島輔四郎(すけしろう)は、新田普請奉行の添役を務める33歳。妻離縁後に、14歳で女中奉公にきた極貧の百姓の娘・あまも、今では20歳。突然、筆頭家老から武芸の達人暗殺の密命を受け、悩む輔四郎。それを知り、「どうか、お供をさせてくださいまし」、「お命じくだされば、その御方に噛みついてでもご助勢いたします」と必死に訴えるあま。長い斬り合いの末、あまが待つ家へ急ぎながら、輔四郎は「これほど身近に妻にふさわしい人のいることに、どうして今日まで気付かなかったものか」と思うのであった。

これらの人間性に迫った時代小説は、読後に一陣の涼風を感じさせてくれる。