19世紀のロンドンの住民になったような気分に浸れる画文集・・・【山椒読書論(270)】
仕事やプライヴェットで海外のあちこちに出張や旅行をしたが、可能なら住みたいと思ったのはロンドンであった。あの少々陰鬱な、よく言えば落ち着いた街の雰囲気が私の好みに合ったのだ。
『ドレのロンドン巡礼――天才画家が描いた世紀末』(谷口江里也著、ギュスターヴ・ドレ絵、講談社)は、読者を19世紀のロンドンの住民になったような気分に浸らせてくれる作品である。
フランスの画家、ギュスターヴ・ドレがロンドン滞在中(1869年~1872年)にドキュメンタリー・タッチで描いた精緻な木版画180枚と、ドレをこよなく愛する谷口江里也の解説のコラボレーションが、何とも言えないいい味わいを醸し出している。
「ドレがロンドンを描こうとしたのは、歴史が近世から本格的に近代という時代に入る、まさにピンポイントのターニングポイントだった」。「ロンドンを描いたドレの面白さは、リアルの画のなかに、ドレの心象が自ずと強く投影されていることだ。これから私たちが見る場面は全て、ドレの目と心に映し出され、ドレの手を通して紙に定着された場面(シーン)だということが、この作品に独特のクオリティを与えている」。「(ロンドン)橋の上は人でごった返していて大渋滞。大勢の人間はもちろん、馬車や荷馬車が行き交う喧騒のなか、時折セント・ポール大聖堂の鐘の音も響いただろう。観光客もいれば、物売りや、儲け話を胸に抱えて先を急ぐ人などもいて、大英帝国の絶頂期であった当時のロンドンの繁栄ぶりがうかがえる一つの象徴的な場所だっただろう。・・・ロンドン橋はまさしく、ロンドンの光と影を象徴する場所でもあった」。
上流階級を描いた「コヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスの特等席」「ホランド・ハウスでの園遊会」「ゴールドスミス邸の晩餐会」「午後の公園」「マンション・ハウスでの舞踏会」などが、当時の華やかさを髣髴とさせる。
ドレは貧しい人々の存在も忘れず、しっかりと見詰めている。「ラヴェンダーを売る少女」「地方から出てきて安宿を探す人々」「ハエ取り紙売り」「衰弱」「屋根の無い人々」「路上で眠る」「安宿の常連」「牛乳売り」「星空の下の眠り」「橋脚のアーチの下で」などが、胸に切なく迫ってくる。「人は、どんな時代でもどんな場所でも、手の届きそうなところにある喜びを求めて日々を生きる。当時の過酷なロンドンであってもそれは同じだ」。「人間の面白さは、何不自由ない暮らしをおくる人のなかにも不満や悩みがあり、貧しい人々の日々のなかにも、一瞬の喜びや寛ぎがあることだ。たとえどんなに苦しい境遇にあったとしても、人は常に、それを受けとめて生きていく強さをどこかに秘めている」。
働く人々もしばしば描かれている。「河岸の通り」「シティの大倉庫業」「ビリングスゲートへの魚の荷揚げ」「早朝のビリングスゲート」などから、当時の労働現場の活気が伝わってくる。
熱狂する人々も恰好の題材となっている。「河岸の樹の下で(ボートレース)」「1ペニー賭けをする子どもたち(ダービー)」「ダービーのフィニッシュ」「ぼったくり賭博」などの、むんむんとした熱気に、こちらまで熱くなりそうだ。