梅原猛と大山誠一の聖徳太子論に真っ向から立ち向かった書・・・【山椒読書論(281)】
梅原猛の「法隆寺=怨霊の寺説」と大山誠一の「聖徳太子=非実在説」に反論している本という点に興味を抱き、『法隆寺の謎を解く』(武澤秀一著、ちくま新書)を読み出した。
「法隆寺は怨霊と化した聖徳太子の霊を封じ込めるために建てられたという梅原猛氏の説が一大センセーションを巻き起こしました。その説は門の真ん中に立つ柱に注目することからはじまっていました。その柱が出入りを妨げている、いわば通せんぼうをして怨霊を封じ込めているというものでした。・・・とみるのはまったくの誤認ということになる」。「法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺としてひろく知られていますが、『聖徳太子はいなかった』という一瞬、耳を疑う議論があります。・・・宗教的ゆたかさの世界は(歴史研究の)客観性を旨とする世界と尺度が違います。信仰という意味の世界を生きるひとにとって、客観性の観点から仮に問題があるにしても、ゆらぐものではないでしょう」――と、著者は二人の説に真っ向から異を唱えている。
著者の主張は、あまりにも自分の建築家としての感性に依拠し過ぎているので、途中で本書を放り出そうかと思ったほどである。
ところが、終章に至り、その主張は意外な展開を見せる。
「伽藍にしても古墳にしても、その構想はすべて発願者の裁量のうちであったと考えられます。当時は今日のように建築家が独立していたわけではありません。発願者にその気さえあれば技術者を使い、みずから『建築家』としてふるまうことが可能だった。伽藍配置や古墳の形といったようなデザインの基本に関してなら、なおさらです」。著者も渋々認めているが、当時は建築家の意見など、天皇・有力貴族の政治的意向の前では無きに等しかったのである。
「ただでさえ厩戸(=聖徳太子)人気は厄介であったのに、創建法隆寺における(厩戸没後の)子孫の集団死事件は火に油を注ぐ結果となった。こうした状況は、(厩戸の息子の山背大兄を滅ぼした)天皇家にとって放置しておけるものではなかったはずです」。「法隆寺の新創建構想は、まったく新しく寺を造ることによって創建者・厩戸の実績を消し、かつ一族の凄絶な集団自死の場を消そうとするものだったのではないか。この世に実在した人物、その血統の実在性を消して仏法のなかに理想化し、現実政治への影響力を削ぐ」。「厩戸一族の集団自決の現場となった(創建)法隆寺を消すことによって血統色を抜く。まったく場所を変えて新しく(新創建)法隆寺を造り、釈迦に昇華した厩戸を本尊に据える。法隆寺を普遍信仰の場に塗り替えてしまったのです。それは清浄なる(天智)天皇の威信を守るとともに、皇位継承者として息子(大友)の立場を強化する意味をあわせもっていた」。著者は、法隆寺は再建か否かの論争については、再建ではなく、新たに建て直されたのだという立場から「新創建」という独自の表現を用いている。
さらに、著者は驚くべきことを書いている。「現・金堂が出来てしまえば、あるいは、完成の見通しが立ってしまえば、厩戸個人の痕跡がのこる法隆寺は不要となる。それどころか邪魔な存在です。清廉なイメージを確立したい天皇家にとって消したい記憶です」。「新旧二つの法隆寺を共存させる気など、最初からまったくなかったのだと思われます。こう解釈したとき、日本書紀が伝える669年冬、670年4月と、短期間に二度にわたる法隆寺の不審な火災の原因も読めてくる。現・金堂の完成の見通しが立ったうえでの、あるいは完成を見たうえでの『被災』だったのではないか。もちろんそのような事態は寺側が予期したものでも、いわんや望んだものでもなかった」。著者は、創建法隆寺の火災の前に現・金堂が完成していた可能性が高いと考えている。創建法隆寺を焼いてしまう算段が新創建構想に既にあったと推理しているのだ。
天智天皇がその政治的意向のもとに新創建法隆寺を建てた、邪魔になる創建法隆寺を燃やしてしまったという、梅原猛張りの著者の大胆な仮説は、信じるか否かは別として、傾聴に値する。