中世の、戦場で生け捕られ、奴隷にされた男女の運命・・・【情熱の本箱(194)】
『雑兵たちの戦場――中世の傭兵と奴隷狩り(新版)』(藤木久志著、朝日選書)は、3つの点で画期的である。
第1点は、「戦国大名たちの戦場」から「雑兵(ぞうひょう)たちの戦場」へと、視点の転換が図られていること。
「凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏への端境期の戦場は、たった一つのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊も、ゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場にくり広げられた濫妨狼藉、つまり掠奪・暴行というのは、『食うための戦争』でもあったようだ」。
第2点は、戦場における雑兵たちの濫妨狼藉の実態、ならびに、戦争で生じた奴隷たちの実態が明らかにされていること。さらに、濫妨狼藉に曝された村や町の側でも自らの力で生命財産を守る逞しい試みを重ねていた事実に言及していること。
「1555年11月、マカオ発のパードレ・カルネイロの手紙は、多くの日本人が、大きな利潤と女奴隷を目当てにする、ポルトガル商人の手でマカオに輸入されている、と報じていた。その中国のマカオは、ポルトガルの日本貿易の拠点であり、日本貿易のごく初めから、奴隷は東南アジア向けの主力商品であった形跡がある」。
九州で戦争の実態を直に目にしたルイス・フロイスは、著作『日本史』の中に、こう記している。「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態にあったから、買いとった連中まで養えるわけがなく、彼らをまるで家畜のように、高来(たかき、島原半島)に連れて行って、(そこで)売り渡した」。
「1596年、ある商人が大坂で売春を目的に豊後出身の18歳の美しいキリシタンの娘2人を買ったが、彼女たちは豊後大友氏の滅亡のときに奴隷の身にされ、上方にまで売り飛ばされていたのであった」。
第3点は、戦国の世から豊臣秀吉の天下統一を経て、その後に至るまで、戦争奴隷や雑兵たちの行方が追跡されていること。
秀吉の人身売買禁止令をバテレンにもたらした使者は、次のような秀吉の言葉を伝えている。「九州に来るポルトガル人・シャム人・カンボジア人の商人たちが、数多くの日本人を購入し、奴隷として諸国へ連行しているのを、自分はよく知っている。今までインドはじめ遠くへ売られていった、すべての日本人を日本へ連れ戻せ。それが無理ならせめてポルトガル船に買われて、まだ日本の港にいる人々だけでも買い戻して解放せよ、その分の代銀は後で与えよう、と」。自らの介入(九州征伐)によって激化させた、九州戦場の深刻な奴隷狩り・奴隷売買を、どうやって救済するかという課題に迫られた結果であり、同じ年に出された海賊停止令・刀狩令とともに、豊臣平和令の不可欠の一環をなしていたのである。
これを受けて、「戦国の人々は、無残な濫妨狼藉の世界にきっぱりと別れを告げて、『秀吉の平和』を選択し、国内の戦場はすべて閉鎖される。戦場を稼ぎ場にして食いつないでいた雑兵たちに、国の外には朝鮮侵略の戦場が、国内の各地には数々の大規模な城普請やゴールドラッシュが、新たな稼ぎ場として用意され、彼らはその現場へ殺到する。戦場(中世)から都市(近世)へ、『秀吉の平和』の震央にこの激動があった。大がかりな戦争も築城も金銀山も、あいつぐ凶作と飢饉の最中には、あたかも巨大な公共事業ともいうべき、生命維持装置の役割を担わされていた様子である」。
生け捕られた人々、すなわち戦争奴隷たちはどこへ行ったのであろうか。「転々と売られ、ポルトガルの船に積まれて、東南アジアに送られた人々の軌跡はかなり確かである。また町場の商家に下人・下女として隷属した人々の痕跡も、その一部は『長崎平戸町人別帳』などによって、わずかに辿ることもできる」。「生捕られた人々で、確認できるものは、いずれも『下人』と呼ばれた武家奉公人として駆使されているから、こうした例は少なくなかったのであろう」。
戦争奴隷たちの悲惨な運命に思いを馳せると、心が痛む。一方で、その発令の背景はどうであれ、秀吉によって人身売買禁止令が出されていたことを知り、少し救いを感じた。