榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

『梁塵秘抄』の時代の人々の仲間に加わったかのような錯覚に陥ってしまう一冊・・・【山椒読書論(558)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年5月26日号】 山椒読書論(558)

「読書クラブ 本好きですか?」の読書仲間・川窪東氏に薦められた『梁塵秘抄漂游』(尾崎左永子著、紅書房)を手にした。

とりわけ印象に残ったのは、「わが宿世」、「さらさらさやけ」、「われらは何して老いぬらん」の3つである。

●わが宿世――
「<美女(びんでう)打ち見れば、一本葛(ひともとかづら)にも成りなばやとぞ思ふ 本(もと)より末まで縒(よ)らればや 切るとも刻むとも、離れ難きはわが宿世(すくせ)>(342)。この歌は男側の心情を述べている。『あーあ、お前さんみたいな美人に逢っちゃあ、どうしようもないよ。一本の蔓草になってしまいたい。下から上まできゅうっと巻きたい。巻かれたい。邪魔者がやって来て切ろうが刻もうが、離れられない。別れられない。それが俺の宿命さ』。全面降伏。降参。『本より末まで縒らればや』という表現には、実感のあるわりに猥雑な感じがない。小唄端唄の類の持つ『粋』に通じるような、或る種の洗練が感じられる。洗練とは余裕でもある。とすると、この歌の『美女』は、やはり遊女とみるべきか。そう思ってみると、『離れ難きはわが宿世』などと、調子のいいことを言って、女をいい気にくすぐっているようにも見えて来てしまう。・・・当時、帝王の器でないと酷評されながら、『年中行事絵巻』六十巻を描かせ、『梁塵秘抄』を編み、楽器や楽譜を集めて、平安の王朝文化の集大成をめざした(後白河)院の覚悟というか、意図の壮大さに改めて瞠目させられる。帝王であった院が夜を徹して、『本より末まで縒らればや』などと夢中になって歌いつづけている姿を思うと、もうひとつ深く秘抄にのめり込んで行きそうになるのである」。

●さらさらさやけ――
「<百日百夜(ももかももよ)は独り寝と、人の夜づまは何(なじ)せうに 欲しからず、宵より夜半(よなか)まではよけれども、暁鶏鳴けば床(とこ)寂し>(336)。『独り寝』は名詞ではなく、『独りで寝る』の動詞で、『独りで寝るとしても』の意ととる。『人の夜づま』が『夫(つま)』か『妻(妻)』かでまた解釈は異なってこようが、いずれにしても意地っ張りの悲しさがにじむ。『百日だって百夜だって、ひとり寝るなんて平気平気。あんな男、他人の夫だもの。たとえ夜に誰と何をしようと、知っちゃない。あんな男、欲しくない。・・・でも、宵から夜半まではいいんだけど・・・一晩中眠れないで、暁が来て、鶏の声がするんだもの。その時ばかりは、人のぬくみのない床が、ほんと、寂しい。ほんと、あの人が恋しい』。妻ある男と、恋をしてしまった女の歎き、ととれば、現代人とも共通な思いが汲みとれよう」。

●われらは何して老いぬらん――
「栄華を極める人も、志を得ずに過ごす人も、金持も貧乏人も、才ある人も無能力者も、誰彼の差別なく、やがて老いを迎え、死を迎える。人間にとってどうしようもない運命の道筋だが、若いうちはどうしてもそのことを直視し難い。まだまだ先があるように思っているうちに、或る日、はっと気づくと、もう後がない。老いの自覚とはそういうものだ。<われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ、今は西方(さいはう)極楽の、弥陀の誓ひを念ずべし>(235)。『一体私は何をしてこの歳月を過ごしたのやら。何をしてここまで老いたのやら。思えばほんとに歎かわしい。今はもうみな投げ捨てて、西方浄土の極楽に生まれ変わるを願うのみ、弥陀の御名を称えねば』。『弥陀の誓ひ』とは、極楽往生を願う衆生を救おうという阿弥陀如来の誓願をいう。・・・(この)一句には、いわく言いがたい哀切な味わいがこもっていて、時空を超えて現代の読者に迫ってくる。そこにはどこか痛切な悔いが感じとれる。再びは還ることのない『時』への追慕を、ひしひしと伝えてくる」。

著者の垢抜けた解説によって、自分も当時の人々の仲間に加わったかのような錯覚に陥ってしまう。

私は演歌大好き人間であるが、演歌の何げない一節に人生の機微を感じることがある。当時の人々も、今様に私と同じような感興を抱いたのだろう。