榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

秀吉亡き後、豊臣(羽柴)家が崩壊を避けることはできなかったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(891)】

【amazon 『羽柴家崩壊』 カスタマーレビュー 2017年9月25日】 情熱的読書人間のないしょ話(891)

散策中、あちこちからキンモクセイの芳香が漂ってきます。トケイソウが時計のような花を咲かせています。実も生っています。モミジバフウが棘をまとった実を付けています。因みに、本日の歩数は16,762でした。

閑話休題、豊臣秀吉亡き後、徳川家康によって豊臣(羽柴)家が滅亡させられた史実に対して、私は、羽柴家として、もう少し何とかできなかったのかという気持ちを持ち続けてきました。

今回、『羽柴家崩壊――茶々と片桐且元の懊悩』(黒田基樹著、平凡社)を読んで、私のそういう気持ちに決着をつけることができました。

本書では、秀吉の側室にして、豊臣秀頼の生母である茶々(淀殿)から家老・片桐且元への書状5通と、秀頼から且元への書状2通の吟味を通じて、なぜ、羽柴家が崩壊するに至ったのか、そして、茶々、秀頼、且元はどういう心理状態にあったのかが考察されています。

「且元は、茶々と秀頼から、羽柴家への異心を疑われ、結局その疑念はぬぐい去れずに、処罰をうけることになった。それに対して且元は、(羽柴家内の主導権争いのライヴァルである織田有楽・頼長父子、大野治長からの襲撃を予想して)一族・家臣の身の安全のために、こぞって羽柴家から退去し、(江戸)幕府方の庇護をうけることを選択した。茶々・秀頼との、この行き違いは、つまるところは羽柴家の在り方についての将来像の違いであった。且元は、羽柴家は明確に江戸幕府配下の一大名となることで、安定的な存続を果たせると確信していたに違いない。それは且元自身が、織田政権からの下剋上で、羽柴政権が誕生した経緯を、目の当たりにしてきたことからくる認識であったろう。ところが茶々と秀頼、とりわけ茶々は、関ヶ原合戦後から続いてきた、羽柴家の特殊な大名としての在り方の維持に拘ったとみられる。関ヶ原合戦後、羽柴家は事実上、一大名のような存在になったが、さまざまな点から特別扱いを認められ続けた。茶々としては、秀頼が政権主宰者になることはできなくても、前政権の後継者として、一大名以上の存在であり続けることに、力点を置いていたのではないかと思われる」。

「関ヶ原合戦後、茶々が且元に対して『自分にはしっかりとした親もおらず、相談できる家臣もいない』といっていた言葉が思い起こされる。関ヶ原合戦後の羽柴家は、且元を除いて、政治能力のある家臣はほとんど一人もいない状態になっていた。そして、且元が(大坂城を)退去した後は、且元排除に動いた織田有楽・頼長父子と大野治長の両者が、羽柴家の家政を取り仕切ることになる。しかしその両者にしても、政治経験は乏しく、そのため江戸幕府と充分な交渉を行えるほどの政治能力は認めがたい。この羽柴家の場合も、充分な政治能力のある家臣がいなければ、大名家の存続は遂げられない、ということの一例といえよう。ましてや主人の茶々・秀頼にしてから、充分な政治経験を有していなかったのである。政権や大名家を存続させるにあたっては、主人にはいかに高度な政治能力が必要であったのか、そこではいかに有能な家臣の存在が必要であったのかということを、あらためて考えさせられる」。

大坂夏の陣で、茶々、秀頼は自害して果て、羽柴家は滅亡します。この時、茶々は46歳(推定)、秀頼は21歳でした。