榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

超能力宣伝家と科学者の言い分のどちらを信じたらいいのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1463)】

【amazon 『科学的とはどういうことか(新版)』 カスタマーレビュー 2019年4月22日】 科学的とはどういうことか(新版)

ホオジロの雄、ツグミをカメラに収めました。モチツツジの園芸品種のハナグルマが薄紫色の花を咲かせています。シランが紫色の花を付けています。白い花のシロツメグサ(クローバー)が群生しています。残念ながら、四つ葉のクローバーは見つかりませんでした。セイヨウタンポポの種子(綿毛、冠毛)は、よく見ると、幾何学的な美しさを有しています。青空をバックにたくさんの鯉が泳いでいます。因みに、本日の歩数は11,135でした。

閑話休題、『科学的とはどういうことか――いたずら博士の科学教室』(板倉聖宣著、仮説社)は、子供向きに書かれているが、私のような大人にも大変勉強になりました。

物事を科学的に考える材料として、「スプーン曲げ事件」と「コックリさん」が取り上げられています。

「『週刊朝日』がこの(スプーン曲げの)トリック解明にのりだすことになりました。そして(当時、小学6年生の)A君の『スプーン曲げ』の実演を連続写真にとり、ついにその具体的なトリックを見やぶるようになってしまったのです。その写真と『超能力ブームに終止符! 少年の母、反省の手記』というその記事ののった『週刊朝日』1974年5月24日号は1、2日のうちに売りきれになったということです。それだけ多くの人たちがこのナゾ解きを楽しみに待っていた、ということができるでしょう」。

「もともと物質的な力以外のものでスプーンを曲げたり折ったりすることなんかできっこないのです。ところが、ふつうの人たちは精神力が物質的な力を及ぼしうるとなにげなく思っています」。

「万が一、精神力といったものでスプーンを曲げることができるとしたら、これはこれまでの自然科学の根底をくつがえす大発見ということになります。量子力学や相対性理論の発見も科学に大革命をもたらしましたが、そんななまぬるいことではありません。それだけではありません。近代社会を支えている合理的思想そのものがくつがえされてしまうのです。念力でスプーンを曲げることができると宣伝している人たちは遠くはなれた冷蔵庫や車や金庫の扉さえあけることができるというのですから、推理小説の基礎はくつがえされます。そして超能力をもっていそうな人間は死刑にでもしておかないと、ぶっそうで安心して生きていられなくもなるでしょう」。

「ところで、この事件は『小さな子どもたち――純真な子どもたちでも超能力でスプーン曲げができる、だからユリ・ゲラーの超能力も本当なのだ』という形で宣伝されたものでした。多くの人はこういう宣伝の仕方にもひっかかったようですが、こういう宣伝にひっかからないためにはどうしたらよいのでしょうか」。

「『ぼくにもスプーンが曲げられる』と名のり出た子どもたちの多くが、だれでもトリックと認めざるを得ないようなへたな手品をやってシャーシャーとしていたことは、超能力宣伝家たち自身がいちばんよく知っていたことだったからです。それなのに、それらの宣伝家たちは人々の批判の目をくらますために、『スプーン曲げはトリックだときめつけるのは子どもの純粋な心をきずつけるものだ』などといいはったのです」。「スプーンが指先の力で簡単にまがるとは思っていない人が多かったのです」。

「念力でこわれた時計を動かすという手品も、じつはこれと同じです。こわれた時計は動きっこないものと思わせておいて念力や超能力で時計を動かしてみせるというわけですが、なにもユリ・ゲラーが念力を送らなくても、こわれた時計をどこかからとりだしてくれば、そのショックや、じっと持った手のふるえなどで、動き出す時計がいくらもあるものなのです」。

「こう考えてみると、デタラメな超能力のトリックを子どもの遊び以上のものとしてかつぎまわったテレビ局や週刊誌も力のおそろしさが、まざまざと感じられてくるようです」。

「(神秘的な占いの一種である)コックリさんは、昔から小・中学生や高校生の間で何回かはやったことがあるので、読者のみなさんの中にも、やったことのある人や見たことがあるという人がいるかもしれません。それが1974年ごろ、とくに超能力ブームとともに全国的に大流行したのです」。「だれかが意識的にトリックを設けているというわけでもないので、そのナゾ解きはスプーン曲げ事件よりもずっとむずかしいのです」。

「コックリさん――つまりコインを動かすもの、それはそのコインに指を軽くふれさせている人々自身よりほかにはありません。ただ、その人々はそのコインを意識的に動かしているわけではなく、その人々の潜在意識が知らず知らずのうちに指先を運動させるので、ひとりでに動くように思えるのです。私たち人間の潜在意識と、それによって生ずる筋肉の運動というものは、なかなかばかにできないものです」。

「コックリさんに使う道具は、昔も今もちょっとした力で簡単に動くようになっています。それに、数分間も指先をコインの上に軽くのせてじっとしているのはむずかしいことです。そこで少したつと知らず知らずのうちに指先がゆれ動くようになります。そんなとき無意識のうちに『コックリさんはこう答えるだろう』などと思っていると、それが自然に指先の運動となってコインを動かすのです。コックリさんなどをまるで信じようとしない人の場合には、コインはでたらめにゆれ動くだけで、一定の方向に動くことはないのです」。コックリさんを信じない私が自分で試みた時も、コインは一定方向には動きませんでした。

「つまり。コックリさんはなにも神秘的な力によっておこるわけでなく、自己催眠状態におかれた人間の心理の働きによっておこる、ごく自然な現象なのです。ですから、なんでもかんでもコックリさんにおうかがいをたててその結果を信じるとなったら、思わぬ被害もまねきかねないのです」。

本書で一番、私の心に響いたのは、この箇所です。「超能力の宣伝家たちは、『現代でも科学では割りきれないような不思議な現象がたくさんある』と力説しています。しかしそんなことはなにも超能力宣伝家にいわれるまでもなく、科学者がもっともよく知っているといえるでしょう。科学を学べば学ぶほど、まだわからないことがどんどんでてくるからです。しかし、だからといって超能力が実在するときめこむのは、あまりにも性急だといわなければなりません。まだ科学では解決されていない問題は無限にたくさんあるのですが、科学は、そうまで神秘的にしか考えられなかったことの正体をつぎつぎに明らかにしてきたこともまた事実なのです。そして、『科学は、ものごとを神秘的に独断的に考える人たちによってではなく、合理的に解き明かそうという人々によってのみ進歩させられてきた』ということも忘れてはならない事実です。これまでの科学の進歩はそういう数々の成果をふまえているのです。ですから、多くの科学者は神秘的な超能力などというものを頭から否定してかかるのも、『それらの科学者の頭がかたいから』とはいえません。近代科学は神秘主義的な考え方とたえずたたかう中から築かれてきたという伝統をもっているのです」。私には、これは、超能力宣伝家に対する科学者の高らかな勝利宣言に聞こえます。