『君主論』は、失職中のマキァヴェッリの就職用論文だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1568)】
コスモスが咲き始めました。あちこちで、ハツユキソウが白い花を咲かせています。オニユリも頑張っています。因みに、本日の歩数は10676でした。
閑話休題、『マキァヴェッリ――<君主論>をよむ』(鹿子生浩輝著、岩波新書)を読んで、私の好きなニッコロ・マキァヴェッリについて、いくつかの興味深い気づきが得られました。
1つ目は、「彼(マキァヴェッリ)は、たしかに信仰心が篤い人物だったわけではない。とはいえ、けっしてすべての(フィレンツェ)市民に嫌われるような悪人ではなかった。彼はむしろ、家族・友人・祖国を愛するユーモラスな人物であった」という指摘。死生観に関する、「彼は、来世の存在や魂の救済を信じていない」という指摘。
2つ目は、マキァヴェッリが幅広い女性関係を楽しんでいたという指摘。「マキァヴェッリは、つねに妻に気を取られているような男ではなかった。出張中には妻の代わりとなる女性がいたようである。フランスでは、おそらくジャンヌという女性がいて、孤独を慰めてくれた。さらに彼は、リッチァと呼ばれている娼婦ルクレツィアとは長年の付き合いだった。彼は後に失職すると、田舎の山荘に引きこもるが、そこから遠くはない場所に住んでいる女性と深い関係になった。・・・この約10年後の1524年、50代半ばのマキァヴェッリは、若く美しい歌手のバルベラと出会い、今回も自分の欲求に逆らわなかった。・・・しかしニッコロは、すぐ翌年にはファエンツァでマリスコッタという女性に出会い、『至福の時』を過ごした。ところがその後も、バルベラへの愛情は冷めていない。親友フランチェスコ・グィッチャルディーニは、君はどんな女でも好きだから、と言ってマキァヴェッリをからかっている」。なぜか、マキァヴェッリに親しみを感じてしまいました。
3つ目は、政治的な煽りを受けて失職した「マキァヴェッリは、政治職の獲得のためにメディチ家に自らを売り込もうと考えてきた。そこで思いついたのがメディチ家の役に立つ著作を執筆することであった。『君主論』は、いわば就職論文である」という指摘。
4つ目は、「マキァヴェッリは『君主論』で、(チェーザレ・)ボルジアを称賛し、読書にその行動を手本とするよう強く勧めることになる」が、強力な後ろ盾であった父・教皇アレクサンデル6世がマラリアで死に、自分も同じ病で死にかけていた「ボルジアは、新しい(教皇)選出会議ではジュリアーノ・デッラ・ローヴェレを支持した。マキァヴェッリは、ボルジア家に積年の恨みを抱くこの人物をなぜボルジアが選んだのか理解に苦しんだ。彼の判断では、この新教皇ユリウス2世がボルジアへの約束をすべて実現させるということは、完全に不可能だった。実際、その約束は遵守されず、その後ボルジアは、瞬く間に影響力を失った。マキァヴェッリは、『君主論』でもこの一手だけは非難している。彼は、(この時も)ボルジアと面会したが、もはや彼に魅了されなかった。「私は、父が死ねば何が起こるかを予め考えておいた。対策もすべて立てておいた。しかし、父が死にかけているときに、自分自身も死にかけているとは思わなかった』。ボルジアがこう述べたのは、この会見のときだろう」という指摘。マキァヴェッリはボルジア称賛一辺倒ではなかったということです。
5つ目は、「彼(マキァヴェッリ)は、多くの解釈とは異なり、フィレンツェに君主国ないし絶対君主国を樹立させようとしたわけではない。(『君主論』と『ディスコルシ』を通じた)メディチ家に対するマキァヴェッリのメッセージは、むしろ『真の共和国』を祖国にもたらすべく行動せよというものである」という指摘。
マキァヴェッリその人と、その作品に関心を持つ人にとって、見逃すことのできない一冊です。