榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

7世紀の比類なき旅行者・玄奘三蔵のシルクロードの旅を追体験・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1585)】

【amazon 『玄奘三蔵、シルクロードを行く』 カスタマーレビュー 2019年8月20日】 情熱的読書人間のないしょ話(1585)

今日の昼食時の女房との会話。「私が毎日、行っているブログのための書評と写真の組み合わせ作業を漢字2文字で表現すると、どういう単語になると思う?」と問い掛けたところ、即座に女房から返ってきた言葉は、「無駄」とバッサリ(正解は「編集」なのに<涙>)。ワタが黄色い花と実を付けています。タカサゴユリ、イチモンジチョウ、ノシメトンボの雌、シオカラトンボの雌(ムギワラトンボとも呼ばれる)、カルガモ一家をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は10,736でした。

閑話休題、『玄奘三蔵、シルクロードを行く』(前田耕作著、岩波新書)は、仏教の原典を求めて、中国・長安から天山山脈を経由してインドへと、遥々シルクロードを辿っていった玄奘三蔵の旅を、著者が追体験した記録です。

玄奘は、自分が歩み抜いた旅の有様を、帰国後、弟子に口述し、『大唐西域記』12巻にまとめました。彼の旺盛な好奇心と鋭い観察力によって、7世紀の、東西の宗教や言語が交じり合い豊饒な文化を育んだ西域・中央アジアの国々の姿が生き生きと描き出されています。

例えば、玄奘一行は、「素葉城に至って突厥の葉護可汗に会」います。「『可汗は緑色の綾の長衣を着、頭髪の長さは一丈ほどあり、絹で額をつつんで後ろに垂らしている』と突厥の可汗の姿を描写している、ソグド人の墓石に刻まれ、またアフラシアブの壁画にも描かれた突厥人の姿そのものである。・・・玄奘はここに数日滞在した。素葉城に集まる諸国の人びとからさまざまな情報を聞き集めたことだろう。・・・こうした多言語を話せる人びとがいること自体、この地域の国際性をきわめてよく表わしている。・・・玄奘一行は摩咄達官(=可汗が付けてくれた通訳官)を加え、さらに西方へと旅立った。統葉護可汗(在位617~628年)が血族によって殺害されたのは、このあと間もなくのことであった。その背後に西域での支配権の拡大をもくろんでいた唐朝の策動があったことは明らかである」。

「玄奘は(バーミヤンの)王家に迎え入れられたので、少し長く滞在し厚い恩義に応えるとともに、この国の見事な伽藍をじっくりと巡り、観礼したいと考えた。『伽藍は数十ヵ所、僧徒は数千人』おり、『小乗説出世部』を学んでいた。玄奘がこれまで歩んできた国ぐにでは、僧たちが学んでいたのは『小乗』の『有部』の宗派に属するものであったが、ここバーミヤンだけは、『出世部』が学ばれていたのである。『出世部』は小乗二十部の一つで、小乗が上座部と大衆部とに分裂したあと、さらに大衆部から派生した最初の部派であった。玄奘が幾日かの滞在を決めたのは、その仏学の内実を知るためでもあったにちがいない」。

「645年正月25日、玄奘46歳、前後17年の遊学の旅が終わろうとしていた。無我夢中で国禁を破り、ひたすらに西方を望み、烽櫓を背に忍びでた往路は痩せ馬とともであったが、いまは雲霞のような人びとに迎えられ、長安へ入ろうとしている。玄奘が将来した仏像・経典の類いを運ぶためには、ゆうに馬20頭の背を借りなければならなかった」。玄奘が持ち帰った経典は、初期仏教(小乗仏教)、部派仏教、大乗仏教に亘る広範なもので、彼はこれらを17年6ヵ月かけて翻訳しました。玄奘というのは、比類なき旅行者であるのみならず、比類なき翻訳者でもあったのです。