死にゆく者の思いと送る者の思いが込められている、文人65人の弔辞集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1722)】
千葉・船橋の「ふなばしアンデルセン公園」では、真冬だというのに、さまざまな色合いのチューリップが咲き競っています。夏に南半球から輸入した球根を冷蔵保管することで一足先に冬を疑似体験させ、秋、外に植え替えると、気温の変化を春の訪れと勘違いして花を咲かせるのだそうです。因みに、本日の歩数は14,147でした。
閑話休題、『「弔辞」集成――鎮魂の賦』(司馬遼太郎他著、青銅社)には、文人65人の弔辞が収録されています。
菊池寛の芥川龍之介への弔辞は、こういうものです。「芥川龍之介君よ 君が自ら択み自ら決したる死について 我等何をか云はんや たゞ我等は君が死面に平和なる微光の漂へるを見て甚だ安心したり 友よ安らかに眠れ! 君が夫人賢なれば よく遺児を養ふに堪ゆるべく 我等亦微力を致して君が眠のいやが上に安らかならん事に努むべし たゞ悲しきは 君去りて我等が身辺とみに蕭条たるを如何せん」。
小林秀雄の中原中也への弔辞の一節。「あゝ、死んだ中原 僕にどんなお別れの言葉が言へようか 君に取返しのつかね事をして了つたあの日から 僕は君を慰める一切の言葉をうつちやつた あゝ、死んだ中原 例へばあの赤茶けた雲に乗つて行け 何んの不思議な事があるものか 僕達が見て来たあの悪夢に比べれば」。小林が中原と同棲していた長谷川泰子を奪ったことを知る者にとっては、見逃せない弔辞です。
岡本一平の妻・岡本かの子への弔辞は、「かの子は妻と片付けられる女ではなかつた。僕にとつて母と娘と子供と、それから師匠でもあり友だちでもあつた」と始まり、「立直つてかの女がゐる如く平常通り暮すのが、かの女のゐない後もかの女をわが家に生かして行く唯一で堅実な方法なのだから」と結ばれています。。
高村光太郎の与謝野晶子への弔辞。「五月の薔薇匂ふ時 夫人ゆきたまふ 夫人この世に来りたまひて 日本に新しき歌うまれ その歌世界にたぐひなきひびきあり らうたくあつくかぐはしく つよくおもく丈ながく 艶にしてなやましく はるかにして速く 殆ど天の声を放ちて 人間界に未曾有の因陀羅網を顕現す 壮麗きはまり無く 日本の詩歌ためにかがやく 夫人一生を美に貫く 火の燃ゆる如くさかんに 水のゆくごとくとどまらず 夫人おんみづからめでさせ給ひし 五月の薔薇匂ふ時 夫人しづかに眠りたまふ」。
平林たい子の林芙美子への弔辞の結び。「私達は、思ひがけず二人とも文壇の人間になつたが、私たちの夢はこんなことではなかつた。もつともつと、崇高ですばらしい筈だつた。きのふ、林さんの死顔を見たとき、私達の人生は所詮これだけのことだつたのカ、と思つて、自分の幻滅ばかりでなく、一緒に林さんの減滅を思つて涙が流れ出て仕方がなかつた」。林の派手な男性遍歴に触れるなど、何とも型破りな弔辞です。
堀田善衞の、35歳で縊死した加藤道夫への弔辞の結び。「お互いにまだ若いのに、若い同僚の葬式をしなければならぬことは、辛いことであった。仕方がない、しかし白井よ、芥川よ、原田よ、木下よ、中村真一郎よ、長生きをしよう、あまり早く死ぬと葬式をしてやらぬぞ」。
よく考えられた弔辞には、死んだ者の思いと送る者の思いが込められていますね。