君が宣誓した相手は大統領ではなく、彼を雇っている国民だ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1875)】
朝4時、賑やかな野鳥たちの囀りで目が覚めました。ホトトギスの写真は撮れなかったが、シジュウカラ、カワラヒワ、ムクドリ、ヒヨドリ、キジバトをカメラに収めました。我が家のモクレンの木に、今年も、キジバトのカップルが巣を作ろうとしています。スイートピー(桃色)、ガウラ(ヤマモモソウ、ハクチョウソウ。白色)、メドーセージ(サルビア・ガラニチカ。青色)の花が咲いています。
閑話休題、エッセイ集『記者失格』(柳澤秀夫著、朝日新聞出版)を読んで、3つのことが印象に残りました。
第1は、「特ダネと誤報は紙一重」の一節です。「取材とはニュースの素材を集めることだと言われるが、本質はその逆で、余分な情報をそぎ落としながら確認を積み重ね、ことの核心に迫る作業だと私は考えている。裏を取る。さらにその裏の裏を取る。取材相手に確認を取るとき、受け答えをした相手の表情や仕草はどんなものだったか。それはきわめて重要な判断材料となる。最近は取材相手にメールやSNSで確認するケースもあると聞くが、危ないなと感じる。古くさいと言われるかもしれないが、取材の一丁目一番地は人と人とが直接向き合うコミュニケーション、もっと言えば一対一の真剣勝負から始まる。どれだけ便利なツールができても、そこは省略してはいけない、変わらないことだと私は思う」。
第2は、「日本人外交官の力量」です。「こうした水面下の動きによって、フン・センをはじめ関係当事者とのあいだに太い人脈と信頼関係が築かれていった。その後、和平交渉は紆余曲折があったものの、日本外交を土台にして最終的な和平合意にこぎつけた。外交とは泥くさいものだ。カンボジアのようにケンカをしている者同士をテーブルに着かせ手打ちをさせるのだから。(外務省アジア局南東アジア第一課長<当時>の)河野(雅治)さんには、日本が東南アジアの安定のためにどれだけ貢献できるか、日本外交の力量を見せたいという心意気があったのだと思う。そんな一人の日本人外交官の姿を目撃できたことは、まさに記者冥利に尽きる」。
第3は、「テレビがなくなるというなら、なくなればいい」に登場する、夫の死によってワシントン・ポスト紙の社主になったキャサリン・グラハムが決断を迫られたエピソードです。「(スティーブン・スピルバーグが制作した『ペンタゴン・ペーパーズ――最高機密文書』という)映画ではキャサリン・グラハムも、権力に屈せず報道の自由を守った人物として描かれている。しかし正直に言うと、私は少しがっかりした。彼女はこんなことを言う。『ワシントン・ポストをつぶしちゃいけない。私は社主として、社員たちを守らなければいけない』。本当にそうなのか? と私は思った。ニクソンににらまれてつぶされるなら、つぶされたほうがいい。堂々と筋を通してつぶされるなら、そのほうがはるかに、自分たちが何を目指したかを、読者や国民に伝えることができるんじゃないか。経営者が社員の生活を守らなければいけないのは、その通りだ。でも、ジャーナリズムの世界に身を置いている我々が、本当に守らなければいけないものはなんだろう? そう考えてみると、新聞社とか放送局といった器ではない気がする。本当に守らなければいけないものは、かたちがあってないようなものだ。公共放送のあり方を考えるとき、こんな映画のワンシーンを思い出す。トム・クランシー原作の『今そこにある危機』で、CIAの情報分析官である主人公は、ある事件の背後に政権の大物がいることを知る。躊躇する主人公に、上司はこう言う。『職務についたとき君は宣誓したはずだ。それは大統領への宣誓ではない。君が誓った相手は大統領を雇っているアメリカ国民だ』。我々の雇い主は視聴者であり、国民だ。そう考えれば、何をすべきか自ずとわかる」。この上司の言葉を、日本の官僚、記者たちにも聞かせたいですね。
本書を読んで、柳澤秀夫が好きになりました。