頭の良い男とは、セクシーな男とは、成功する男とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2019)】
キタテハ(写真1~7)、キンケハラナガツチバチの雌(写真8、9)、ヒメジュウジナガカメムシ(写真10、11)がセイタカアワダチソウの花で吸蜜しています。セイタカアワダチソウは秋の花粉症の犯人扱いされてきたが、真犯人はブタクサで、セイタカアワダチソウは濡れ衣を着せられてきたのです。セイタカアワダチソウは昆虫の媒介によって受粉する虫媒花で、風が媒介する風媒花ではありません。
閑話休題、エッセイ集『男たちへ――フツウの男をフツウでない男にするための54章』(塩野七生著、文春文庫)を、久しぶりに、書斎の書棚から引っ張り出してきました。
「頭の良い男について」には、こういう一節があります。「有名大学の競争率の高い学部を卒業して、一流企業や官庁や大学に勤めている人が、頭の良い男とイコールにならないという例も、しばしば起こるのである。日本では、教育はあっても教養のない男(これは女でも同じだが)は、まったくはいて捨てるほど多い。つまり、ここで言いたい『頭の良い男』とは、なにごとも自らの頭で考え、それにもとづいて判断をくだし、ために偏見にとらわれず、なにかの主義主張にこり固まった人々に比べて柔軟性に富み、それでいて鋭く深い洞察力を持つ男、ということになる。なんのことはない、よく言われる自分自身の『哲学』を持っている人ということだが、哲学と言ったってなにもむすかしい学問を指すわけではなく、ものごとに対処する『姿勢』を持っているかいないかの問題なのだ。だから、年齢にも関係なく、社会的地位や教育の高低にも関係なく、持つ人と持たない人のちがいしか存在しない」。全く、同感です。
「インテリ男はなぜセクシーでないか」は、男と女の本音に迫っています。「インテリ男がセクシーでないのも、毒にも薬にもならない、彼ら特有のものの考え方にも理由があるにちがいない。男が女に魅力を感ずるとは、所詮、その女をだいてみたいという想いを起こすことであり、女が男に魅力を感ずるとは、その男にだかれてみたいと思うことに、つきるような気がする。頭の中身も容姿も、この種の健全なる欲望を補強する程度の働きしかない。健全で自然で、人間の本性に最も忠実なこの欲望を刺戟するのが、人のもっている魅力というものだろう。インテリ男がセクシーでないのは、補強する程度の働きしかもたないものに、最高の価値をおく生き方をしているからである。ばかばかしいことを、ばかばかしいとはっきり述べる、自然さをもたないからである。それどころか、いかにももっともらしい理屈をつけることに、全力を集中しているからなのだ。これらの男たちから、『男』が感じられないのも、当然の帰結にすぎないと思えてくる」。耳が痛い男も多いことでしょう。
「成功する男について」を参考にして、男を磨くことにしましょう。「ここでいう『成功者』とは、社会的地位の上下とはあまり関係ないかもしれない。なぜなら、社会的地位ならばひどく高い男たちの中にでも、もうどうしようもないほど程度の低い男たちもいて、あんなのにまでは関わってはいられないと思うからである。やはり、ある程度の質は保証された『品』についての話でないと、男性論も香りを失う。成功する男とは、まず第1に、身体全体からえもいわれぬ明るさを漂わせる男だ。・・・人の一生には、多くの苦しみと悩みがないではすまないのが普通だ。たとえ他人には打ちあけなくても、胸の中にしまっておくだけでも、たいていの人はなにかしら苦悩をかかえて生きている。その人々にとって、明るさをもつ人は、それ自体ですでに救いなのである。・・・第2、暗黒面にばかり眼がいく人、ではない男。なにもかも暗く見てしまう性質の人は、周囲の者に耐えがたい思いをさせないではおかないものである。・・・第3、自らの仕事に、90パーセントの満足と、10パーセントの不満をもっている男。・・・人生やはりいくぶんかの楽観主義は必要で、そうでないと、自分自身が耐えていけないだけでなく、周囲の人まで巻きぞえにしかねないのだ。いつもいつも緊張している人のまわりには、人は喜んでは集まらないものである。ただし、10パーセント程度の不満はあったほうがよい。そうしないと、いかに楽観主義者が好ましかろうと、それは楽観した人でなくて、単なるアホになってしまう。また、10パーセント程度ならば、刺激になり、ために向上心につながってくる。・・・第4、ごくごく普通の常識を尊重すること。これは、尊重することであって、自ら守れといっているのではない。人々が拠って立つところの常識は、尊重はしなければならないが、自分自身では守らなくてもよい。・・では、なぜ普通人の常識は尊重しなければならないかということだが、それは、人には誰にも、存在理由をもつ権利があるからである。・・・もしも、人生の成功者になりたければ、どんなに平凡な人間にも、五分の魂があることを忘れるわけにはいかない。これは、人間性というものをあたたかく見る、ということでもある。真にヒューマンな人のまわりには、灯をしたうかのように、人は自然に集まってくるものである」。自分が成功者になれなかった理由が、よく分かりました。