今世を捨てて来世だけを思い続けてきた高徳の老僧が、今世の美女に恋をしてしまった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2123)】
カルガモたち(写真1、2)、オオバン(写真3、4)が地上に上がっています。ツグミ(写真5、6)、ヒヨドリ(写真7)をカメラに収めました。ウメの花が芳香を放っています。因みに、本日の歩数は11,617でした。
閑話休題、『決定版 三島由紀夫全集(19)』(三島由紀夫著、新潮社)に収められている『志賀寺上人の恋』は、『太平記』にほんのちょっぴり登場する志賀寺上人の恋物語に材を求めています。
「志賀寺上人は高徳の僧である」。
「上人はおぼえずそのほうを見た。そしてその美しさに搏たれた。御息所と上人の目はしばらく合い、上人がその目を離そうとしないので、御息所もあえて外すことはしなかった。無礼な視線をゆるすほどに寛容な人ではなかったが、相手がいかにも行い澄ました老僧だったので、しばらくその凝視の意味が訝られたからである」。
「御息所は宮廷の好者には心を惹かれず、若い美貌の貴公子にも、これと云って心を動かされなかった。男の容色は何ものでもなかった。ただ誰が、最も強く、最も深く、彼女を愛することができるかということだけが関心事だったのである。こういう関心事を心に抱いた女は、怖るべき存在になる。娼婦なら、地上の富を捧げられて充ち足りるだろう。しかし御息所は、地上の富のありとあらゆるものを持っていたので、来世の富を捧げてくれる男を待っていたのである」。
「あの老僧は一旦浮世を捨てた。彼は公卿たちよりもはるかに男だったのだ。そうして浮世を捨てたように、彼は今度は、御息所のために来世をも捨てるであろう」。
「こんな孤独な恋は、ついには自分をだますまでに、ふしぎな手管を編み出すもので、ようやく御息所に逢いに行こうという決心がついたときは、上人自身は、この身を灼くような病いから半ば治った気でいたのであった。そう決しした際の異常なよろこびを、上人自身、ほとんど恋から遁れ得たよろこびだと、見誤まったほどである」。
「浄土がわがものになるなら、また事実、今やそう信じられるのであるが、上人の恋をうけ入れてもよいと思われた。御息所は、この仏の手を持った男が、御簾をあげてくれ、と頼むのを待った。上人はそう頼むであろう。御簾はあげられるだろう。志賀の湖畔に於けるがように、京極の御息所のならびない美しい姿が現われるだろう。上人は招き上げられるだろう。・・・御息所は待った。志賀寺の上人は、しかし何も言わず、何も願わなかった。御息所の手をしっかりと握っていた年老いた手は、やがてほどかれた。雪のような手は、曙の光りのなかに残された。上人は立去った。御息所は冷たい心になった。数日ののち、志賀寺上人がその草庵で入寂したという噂が届いた。京極の御息所は美しい経巻の数々を納経した。それは無量寿経、法華経、華厳経などのありがたい経文である」と結ばれています。
今世を捨てて来世だけを思い続けてきた高徳の老僧が、今世の美女に恋をしてしまう、その高貴な美女は、老僧に来世への導き役を期待して手を差し延べるが、老僧は立ち去ってしまう――この恋と浄土信仰の皮肉な絡まり具合が、三島由紀夫の創作意欲を刺激したのでしょうか。