榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

日本近代文学における最初にして最高の文学者=編集者は夏目漱石だ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2135)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年2月16日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2135)

あちこちで、ジンチョウゲ(写真1~3)が咲き始めています。白い花を咲かせるジンチョウゲ(写真4、5)は蕾を付けています。カンヒザクラ(ヒカンザクラ。写真6~9)が咲き始めました。カワヅザクラ(写真10~12)の花が青空に映えています。因みに、本日の歩数は11,348でした。

閑話休題、『編集者 漱石』(長谷川郁夫著、新潮社)は、夏目漱石の生涯を編集者という視点から捉え直そうという意欲的な試みです。

「すぐれた文学者は、誰れもが自らのうちに編集という機能を備えている。表現することは見せる、聞かせる、読ませることであるからだ。言葉をもって表現する者は、言葉の有効で適切な生かし方を考え、文章を操作し、構成に工夫を凝らすことだろう。見せる、読ませる技術は編集のはたらきである。この目に見えないはたらきを意識的にせよ、あるいは無意識にではあっても自らの作品に対してだけではなく、外に向って、とは具体的には読者という存在に向けて発揮させようとする者を編集者と呼びたい。・・・私が見るところ、日本の近代文学において最初の、そして最高の文学者=編集者は夏目漱石である」。

「漱石がすぐれた編集感覚の持ち主で、実践家であったことには、早くから気づいていた。森田草平や鈴木三重吉らの庇護者的存在であり、朝日新聞紙上に文藝欄を創設、長塚節の『土』や中勘助の『銀の匙』を連載したこと、また芥川龍之介の文学的出発を激励の言葉をもって祝福したことなどは誰れもが知るところといえるだろう」。

とりわけ興味深いのは、編集者としての漱石は正岡子規の影響を強く受けているという指摘です。「編集者・正岡子規の遺伝子は、高濱虚子、夏目漱石、二人のなかに受け継がれた。その形跡は・・・子規の激越した意志を継いだ虚子には、反撥や挫折を含めて、顕著に観察されるところだが、漱石は目には見えないはたらきに促されて12年を、子規とともに生きたのだった。あるいは、『ホトトギス』が漱石の『吾輩は猫である』によって甦ったことを知るなら、漱石は病床で子規が思い描いた『未来』をまるごと託されて生きたのだ、と記すべきかも知れない」とまで、力説しています。

編集という仕事の大変さが随所で語られています。「朝日新聞社における漱石の編集者としての活動は、すでに『虞美人草』連載開始直前から始まっていた」。

「文藝欄創設は。『文學界』派の英文学者の思いつきだったのだろうか。・・・渋川玄耳と相談する、など漱石は行動的だった。この時にはまだ『知人』のために発表場所を確保するだけのつもりであったようだが、しかし『編輯者の一存』と、漱石が編集者としての明確な自覚を抱いていたことは注目される」。

「編集者・漱石の責任感が記させた言葉といえるだろう。詳しい事情は不明だが、(森田)草平のずぼらにはこれまでも度々悩まされてきた。憤懣が爆発した」。

「編集という仕事は創造的ではあっても、おもに他者である人間を相手とする以上、そこにさまざまな障碍があり、時にはトラブルが発生することもある。漱石もまた、それを乗り超える経験に直面したことが、2月3日に阿部次郎へ送られた書簡によって窺える」。

「褒められ好きの漱石は、褒め上手でもある。これは編集者の資質の一つ。褒め方ほど難しい言葉の技術はない」。

「編集上の苦労が並大抵のものではなかったことが察せられる。しかも、妬みや恨みを買うかも知れない危い仕事なのである」。

漱石が後進育成に熱心だったことも強調されています。「この頃の木曜会の常連について、(妻)鏡子の回想がある。『所謂漱石門下といはれた人達の外に、若い人達が大分お見えになりまして、一時一寸さびれたかと思はれた書斎も随分賑やかになりました』と語られる」。

「(漱石の)末期の眼に、寺田寅彦、橋口五葉、鈴木三重吉、野上彌生子、中勘助、芥川龍之介、また和辻哲郎、岡本一平らがそれぞれの『未来』において活躍する姿が捉えられていた。武者小路実篤、志賀直哉、谷崎潤一郎らを加えて新時代の文学の全体像が鮮明に浮んでいたと想像される」。