榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

奇怪な人間の見本市のような連作短篇集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2401)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年11月13日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2401)

ラクウショウ(写真1、2)が茶色く、イロハモミジ(写真3)が赤く色づいています。ヴァンダコスティリス・ルースネアリー(写真4)、ペンタス・ランケオラータ(クササンタンカ。写真5~8)が咲いています。

閑話休題、連作短篇集『死者にこそふさわしいその場所』(吉村萬壱著、文藝春秋)は、奇怪な人間の見本市のようです。

例えば、『苦悩プレイ』は、妻がいる男性とのセックスの回数を克明に記録する女性の物語です。

「富岡にとってゆき子は、外にいる時は痩せたコオロギのような存在に過ぎないが、家で二人きりになって着替えなどを始めると決まって女っぽい体に見えてくる。着痩せするのか、裸になると背中や腰回りに三十路女らしい肉付きが現れ、角度によっては肉の殺げたように見える乳房も、鷲掴みにすると随分と肉が詰まっているのが分かる。先にシャワーを浴びて寝室の布団に横たわって待っていると、髪をアップにした全裸のゆき子が横に寝そべってきて、天井を向いて長い息を吐いた」。

「妻と別れて結婚するという約束も、家を出て一緒に暮らすという約束も果たされないまま、フォトウエディングの代金しめて五万円也を自腹で払わされ、今こうして言われるままに裸になって横たわっているゆき子。その両脚を高々と持ち上げて、蒸気機関車のように腰を振っていると、半分開いた窓の網戸からプワァーンという間の抜けたクラクションの音が聞えた。『二百一回目よ』。『ああ分かってる』。『中で出して』とゆき子が言った。『大丈夫なのか?』。『何が?』。『中で出して大丈夫なのか?』。『もう、なりかけてるから・・・』」。

「この二年間での日付と累積回数を、ゆき子は克明に手帳に記録している。その数が二百回に達したら富岡は妻と別れてゆき子と結婚することになっていた」。

「これが誰かに襲われた後のゆき子だと考えた途端、富岡の全身を苦しみと同時に歪んだ喜びが突き抜けた。なぜならそれは、ゆき子が誰からも見向きもされない女ではなく、不特定多数の男を欲情させる体の持ち主だということを意味したからである。そう思うと化粧崩れしたゆき子の横顔にも妖しい色気が差してきて、個人的で卑俗なものに過ぎなかった情事の光景が、世界中の男達が見たがるような普遍的価値のあるものに思えてくるのだった」。

「富岡の見立てでは、ゆき子は何の問題もないところにわざわざ在りもしない問題をでっち上げて苦悩と戯れて慰めを得る『苦悩マニア』だった。好きな相手と一緒になれず、日陰女に甘んじなければならない状況に苦しんでいるのはよく分かる。しかしゆき子の悩みの中心は、専ら『当たり前って何ですか?』というどうでもいいような問題に収斂された。・・・こんな問題に対する解答はまず存在しない。ある時この事実に気付いたゆき子は、永遠の苦悩の種を得たことに密かにほくそ笑んだに違いない」。

「富岡は時として、自分はゆき子の『苦悩プレイ』に突き合わされているだけなのではないかと思うことがある。この女にとって本当は結婚などどうでもよく、ただ富岡の抱く罪悪感を利用して手元に繋ぎ止めておき、悩む己の姿を見て貰い、相手をして欲しいというだけのことなのではなかろうか」。

思いがけない結末が待ち構えています。

ゆき子は確かに風変りだが、富岡も相当風変りな人間です。小説を読むというのは、もう一つの人生を経験することだと誰かが言っていたが、この意味で、この短篇集はその役割を十分に果たしています。