こんなに痛快な歴史書には、ついぞ、出会ったことがありません・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2557)】
シジュウカラ(写真1~3)が一頻り囀った後、羽繕いをしています。ノムラモミジ(写真4、5)の紅葉、イロハモミジ(写真6)の新緑が目を惹きます。ハナミズキ(写真7)が咲いています。ライラック(リラ。写真8、9)、モッコウバラ(写真10~13)が芳香を漂わせています。背の高いオダマキ(写真14、15)も咲いたわよ、と水遣りから戻ってきた庭師(女房)から報告がありました。
閑話休題、『論考 日本中世史――武士たちの行動・武士たちの思想』(細川重男著、日本史史料研究会監修、文学通信)は、学問的レヴェルはしっかり維持しているのに、実に楽しく読めるコラム集です。
●道元と北条時頼――
「当時の鎌倉にあって、もっとも救済を求めていたのは、努力もむなしく自身の指令という形で三浦氏を滅ぼしてしまった時頼であったのではないでしょうか。道元の鎌倉行きは、『関東執権従五位上行左近衛将監平朝臣』という権力者に接近するためではなく、『北条五郎』という21歳の青年を救うためであったと思います、7か月の滞在の後、『名藍(立派なお寺)を建てますから、帰らないで下さい』と言う時頼に対し、『越州に小院の檀那あり(越前にも小さな寺の信者がいます)』の言葉を残し、道元は越前の山寺(永平寺)へと去ります。この時の道元との出会いが、時頼の禅宗への傾倒の端緒であったのではないでしょうか」。
●『吾妻鏡』元暦元(1184)年6月18日条――
「源頼朝の命による甲斐源氏の一条忠頼暗殺の場面。甲斐源氏は頼朝の先祖源義家の弟義光流で、平安時代から甲斐国(山梨県)に根を張り、平家一門(平清盛の一族)全盛時代も変わらず甲斐に盤踞していた。そして頼朝とは別に独自に挙兵し、北の信濃(長野県)、続いて南下して駿河・遠江(静岡県)の東海地域に進出した。その直後に頼朝の傘下に入ったが、実質上、同盟関係と言って良く、甲斐源氏にしてみれば、頼朝に『協力してやる』という意識であったろう、・・・(甲斐源氏のリーダー格の)忠頼は幕府での頼朝主催のコンパに呼び出され、その場で暗殺されてしまったわけである。・・・(その暗殺場面は)ハリウッド映画『ゴッドファーザー』の一場面みたいな凄惨で重厚な一幕である。不謹慎だが、名場面と言えよう」。
●鎌倉幕府の政治体制――
「現在、日本中世史学界においては、鎌倉幕府の政治体制は、佐藤進一氏の提唱により、①将軍独裁、②執権政治、③得宗専制――の3段階に区分されておる」。
●細川頼之の漢詩――
「管領として12年、足利義満(22歳)を支えた細川頼之(51歳)が、康暦元(1379)年閏4月の『康暦の政変』で失脚して、京都の屋敷を焼き払い、一族・家臣300余人と共に、本拠地である四国に帰る地中で詠んだ漢詩(七言絶句)」。この漢詩「海南行」の著者による意訳は、こうなっています。「どーせ 私なンか いい年して ナンの功績も無い役立たずですよ 花や木ィ見ると 春が過ぎ去って はや季節は夏のなかば 部屋中にハエどもが充満して ウザくて ウザくて しょーがないので もうイスでも探して来て 涼しいトコで寝ます」。
●『古今著聞集』の「闘諍」――
「ある年の正月元旦、三代将軍源実朝の鎌倉御所に御家人達が群参していた。その中で、執権北条義時に次ぐ幕府ナンバー2の大幹部である相模(神奈川県)の豪族三浦介義村(52歳くらい)は最上席、言ってみればSS席にふんぞりかえっていた。するとそこに『オラ! オラ! どけ! どけ!』とばかりに並み居る御家人たちをかき分けて、ズカズカやって来た者がいた。まだ年若い下総(だいたい千葉県北部)の豪族千葉介胤綱である。胤綱は義村のさらに上座にドッカ! と座ってしまった。当然、義村はカンカンに怒って言った。『下総の犬野郎は寝床を知らねェーようだな!』。胤綱は間髪を入れずに言い返した。『三浦の犬野郎は、ダチを喰うぞ!』。――胤綱の一言で、威張りくさっていた義村はへこんでしまったらしい。この話は鎌倉中期成立の説話集『古今著聞集』に載っているのだが、オチには説明が必要である。胤綱の言葉は、建保元(1213)年5月に起こった鎌倉幕府の内戦『和田合戦』における義村の行動を突いているのである。この合戦は、当時の政所別当北条義時と侍所別当和田義盛の抗争から勃発した。幕府を二分する戦いであった。この時、義村は従兄である義盛と共に戦うことを誓い、起請文まで書いていたにもかかわらず、土壇場で寝返って義盛の挙兵計画を義時に密告し、ために合戦は義盛方の敗北という結果となった。義時はこの勝利によって、それまで就いていた政所別当に、義盛の就いていた侍所別当を併せて、執権、つまり御家人ナンバー1の地位に就いた。義時の勝利は、全く義村のおかげであり、以来、義村は幕府ナンバー2の最高幹部となった。だが、義村の行動は、何と理由をつけようとも、裏切りであり、義盛や、義村と同世代であった義盛の子息達をはじめとする和田一門はほぼ族滅したのである。義村の地位は、まさに『友をくらふ』ことによって得たものであった。・・・なんと胤綱はこの時数え年12歳、満年齢だと11歳。5年生である。これでは『いまだ若者』(『古今著聞集』原文)どころではない。チビッコである。声変わりもしておるまい。スンゴイ生意気なガキであるが、カッコイー! とも言えよう。・・・義村の裏切りは周知の事実であったのに、御家人たちが義村の権勢を恐れて誰もそれを口に出そうとはしなかった中で、これを真っ正面から言ってのけたのが、12歳の男の子であったことは、『王様は裸だ!』と言ったのが小さな子供だけであったのと同じく、いつの時代も大人というのは保身を考えて情けなくなってしまうのね、ということである」。
こんなに痛快な歴史書には、ついぞ、出会ったことがありません。