榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

母を処刑したエリザベス1世の後釜に座ったジェイムズ1世・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2637)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年7月6日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2637)

ヒヨドリ(写真1、2)の囀りで目が覚めました。ヒヨドリの鳴き声を耳にするのは久しぶりのことです。あちこちで、ムクドリ(写真3)の若鳥たちが鳴き交わしています。オオヒラタシデムシ(写真4)、シオカラトンボの雄(写真5、6)、オオシオカラトンボの雌(写真7)をカメラに収めました。コチャバネセセリ(写真8、9)がボタンクサギ(写真8~12)で吸蜜しています。我が家のモクレン(写真13)が今年2回目の花期を迎えています。

閑話休題、『物語 スコットランドの歴史――イギリスのなかにある「誇り高き国」』(中村隆文著、中公新書)で、とりわけ興味深いのは、●シェイクスピアの『マクベス』のモデルとなったマクベス王とは、いかなる人物だったのか、●フランスのノルマンディー地方の領主ウィリアム1世がイングランド王になったのはなぜか、●スコットランド王であったジェイムズ6世がイングランド女王エリザベス1世の後釜に座り、ジェイムズ1世となったのはなぜか――の3点です。

●マクベス王
「1034年に(スコットランドの)王座についたダンカン1世はロージアン、ストラスクライドを併合し、現在のスコットランドとほぼ同じ地域を手中に収め、さらにはイングランド北部にあるダラムへと侵攻するなど野心的な王であった。しかし、その後、マクベスに反乱を起こされて王座を奪われることになる。マクベス王(在位1040~57年)はシェイクスピアの作品『マクベス』では翌深い王位簒奪者として描かれているが、彼自身はダンカン1世の従兄弟で、妻グルッホがケネス3世の孫娘であったことから、従来のタニストリーにおいてマクベスは正当な王位継承権保持者だった。王位簒奪者と呼ばれるマクベスの治世はおおむね平和であったといわれている。この頃のイングランドはエドワード懺悔王の治世下にあったが、ノーサンブリア伯のシワードがなきダンカン1世の息子マルカム3世を迎え、その反乱を支援した結果、マルカム3世はマクベスを、そして、その後を継いだマクベスの養子ルーラッハを廃して、王座をつかみ取った。これは『イングランドの手助けによって、王位簒奪者マクベスとその息子を廃し、スコットランドに平和が訪れた』ということを意味する(この見方は、シェイクスピアの『マクベス』でも強調されている)。

●ウィリアム1世
「これ(マルカム3世の王位獲得)以降、イングランドはスコットランドへと介入をはじめ、次第に影響力を及ぼすようになる。その大きな転換点は、1066年、ウィリアム1世(ノルマンディー公ギョーム2世)によるイングランド征服(ノルマン朝の成立)である」。

「イングランド・ウェセックス朝最後の王エドワード懺悔王の孫エドガー・アシリングは、ノルマン朝初代の王ウィリアム1世との政争に敗れてスコットランドに逃亡し、その姉マーガレットは、マクベスたちを廃して王座についたスコットランド王マルカム3世の2番目の妻となる。そのマルカム3世は妻の弟エドガーこそが正当なイングランドの王位継承者と主張したのだが、それがウィリアム1世の不興を買い、ノルマン朝イングランドと戦うことになり敗北、その後、和平を結んだ。ノルマンディーを本拠地とするウィリアム1世のイングランド支配はノルマンコンクエスト(ノルマン征服)といわれる一大事件であったが、その余波はスコットランドをも覆ってしまったのだった。ウィリアム1世はマルカム3世を破ったとき、和平の条件として、その息子ダンカン(マルカム3世と最初の妻イーンガボーグとの間に生まれた長男)を人質としてロンドンに連れ帰った。のちにダンカンは、ウィリアム1世の息子ウィリアム2世の援助を受け、ダンカン2世として1094年にスコットランド王座につくことになるが、以後イングランドは常に傀儡政権をスコットランドに置こうとするようになる」。

●ジェイムズ1世
「イングランドの政治的圧力に押され気味であったなか、スコットランド王を務めたジェイムズ5世と妻との間の娘メアリ・スチュアートが結果的にのちのスコットランド女王となるのであるが、その運命は悲しき運命をたどるものであった。・・・1560年、夫であるフランス国王フランソワ2世が若くして逝去したため、メアリは翌1561年にスコットランドへ戻ってきた。・・・イングランドのエリザベス1世は、自身の王位継承を脅かす目の上のタンコブとして、反メアリ派のプロテスタント貴族たちと結託してメアリをスコットランド女王の座から引きずり降ろそうと暗躍していた。・・・メアリは(再婚したダーンリー卿との間の)男児を出産したものの(それはのちのスコットランド王ジェイムズ6世で、イングランド王ジェイムズ1世となる男の子であった)、夫との結婚生活はさらに冷え切ったものとなった」。

「およそ1年程度監禁されていたジェイムズは脱出し、自身を監禁したプロテスタント貴族たちを断罪し、スコットランド国王として親政を開始した。では、国を追われた女王メアリはどうなったかといえば、仇敵エリザベス女王のもとに身を寄せて軟禁されていた。手紙は書けるなど比較的自由を許される身ではあったが、それを利用し、エリザベス廃位の陰謀に荷担するなどしたようで(あるいは利用されていたようで)、1570年のリドルフィ事件、1586年のバビントン事件などに関与した証拠がみつかり(とはいえ、その関与にも疑問の余地があるのだが)死刑が宣告され、短いながらも波瀾万丈な人生の幕を閉じた。幼少期に女王となり、国を追われてフランスで結婚し、国へ戻ってくると敵だらけで。自身の再婚はことごとく非難され、そしていずれも失敗に終わり、国を再度追われて流れ着いたところでまたもや政治的陰謀に巻き込まれて処刑される、というその悲劇的運命は多くの人の同情を呼んだ」。

「目の上のタンコブであるスコットランド(元)女王メアリ・スチュアートを処刑したイングランド女王エリザベス1世であったが、当時のイングランドはそれで安心できる状況ではなかった。・・・孤立するイングランドをなんとかもちこたえさせてイギリスの栄光を世界に知らしめた女王エリザベスであったが、その後は国内の混乱もあり人気は低迷し、また、結婚もしておらず、結局、後継者を残すことも指名することもなくこの世を去った。エリザベスの死期を悟り、後継者選定に動いていた秘書官ロバート・セシルが目を付けたのが、悲運のスコットランド女王メアリ・スチュアートの忘れ形見であるスコットランド王ジェイムズ6世であった。・・・エリザベスの死期が近づくなかでジェイムズはイングランド側と交渉を重ね、1603年、イングランド王ジェイムズ1世として戴冠した(在位1603~25年)。こうして、イングランドとスコットランドは同君連合(王冠連合)となり、ジェイムズ1世が『グレートブリテンの王』を名乗ることになった。イギリスの絶対君主がここに誕生したともいえる」。

本書のおかげで、知りたいと願っていた歴史の謎が解け、大満足!