北条時頼、時宗親子が師事した中国僧・蘭溪道隆とはどういう人物だったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3261)】
コチドリ(写真1~4)をカメラに収めました。マンサク(写真5~7)、ヨコハマヒザクラ(写真8~10)、コヒガン(写真11~13)が咲いています。
閑話休題、私は北条時頼と、その息子の北条時宗が好きです。その二人が師事したのが蘭溪道隆です。その蘭渓道隆とはどういう人物なのか、その教えはいかなるものか――を知りたくて、『蘭溪録』(蘭渓道隆著、彭丹訳、禅文化研究所)を手にしました。
蘭溪は33歳の時、中国(南宋)から禅の伝道のために日本に渡来しました。博多に滞在した後に京都から鎌倉寿福寺に入り、当時の鎌倉幕府執権・北条時頼の依頼により常楽寺の住職となり、建長寺の初代住職となりました。さらには48歳の時、京都建仁寺第11代住職となり、最後は建長寺にて68歳で亡くなりました。
常楽寺、建長寺、建仁寺の住職であった時の禅の伝道の記録を、蘭溪自らの手によって記録されたのが『蘭溪語録』です。中国語で書かれた『蘭溪録』を今回、現代日本語訳で読むことができるようになったのです。
とりわけ個人的に興味深いのは、蘭溪と道元の関係です。時頼は、建立した建長寺初代住職には中国留学から帰国した道元を望んでいたが、道元が高齢ということもあり、蘭溪にお鉢が回ってきたというのです。その後のことだが、蘭溪は道元に手紙を出し、道元から返書があったというのです。
<行くとき、住(とま)るとき、坐るとき、臥すとき、行住坐臥のあらゆるときによく観てみよ。広々とした天地の間にはきみ自身しかいないことを。山河大地、草木樹林はきみの心外にあるのではなく、心内にあるのでもない。ことごとくきみと一体である。そして、きみは眼前の森羅万象から、ただひとつの精明(しょうみょう。無垢な清浄心)だけを観出(みいだ)すことができる>。
<釈尊の佛法や祖師の妙道、そんなものは天にも地にもどこにもない。とは言うものの、集めれば塵ひとつほどにもならないが、散れば縦横無尽にして空いっぱいに満つ>。
<道は屎尿のなかにあり、路は瓦礫の上にある。耳で聞いたり目で見たり、壁にぶつかったり躓いたりして、世の人はみなこの一丈三尺の窟(あなぐら)から跳びだすことができない。山僧(蘭溪)と諸人は、さあ、如何にすればここから跳びだせるか>、<下座、巡堂、喫茶。おのおの精進せよ>。
<西来の達磨は何も伝えなかった。伝えたのはただこの無文の印子(不立文字、以心伝心という禅の真髄)のみ。東土の祖師はこれを次から次へと託してきた。託したのはこの無心の道人(大悟した大自在人)だけ。では、その無心道人はどこにいるのか。無文印子はまた誰が受け取ったのか。建長(蘭溪)は隠し持つことができず、嘘もつけない。今夜はその無文印子を諸人に見せよう>。
<天台山の寒山拾得、なにゆえにあんなに笑っているのか。今となってもうわからなくなってしまったよ(寒山拾得のことなどいちいち考えなくてもよい。観るべきところを観よ)>。
<氷雪の如き清潔なる者だけがわが禅門に入ることができ、蓬蒿(よもぎ)の如く韜晦(自分の才能を包み隠す)する者のみがわが宗を光大することができる>。
<少林寺にて九年の修行を終えた達磨(禅宗東土初祖)は、天竺に帰る前に弟子たちを集め、「おまえたちはわしから何を得たか。それぞれ話してみよ」と問うた。・・・最後は慧可(禅宗東土二祖)である。慧可は三拝して何も言わず自分の座に戻った。すると達磨は言った。「おまえは私の髄を得た」と。そして、「昔、世尊はこのようにして正法眼蔵を迦葉に伝えた」と述べた>。
蘭溪の言葉を読み進んでいくと、蘭溪というのは、謹厳実直というよりは、気さくで、いささかお茶目な人物だったような気がしてきました。
なお、一杯の茶に「平常心すなわち道」という禅の極意を読みとる蘭溪の教えは、茶の湯の濫觴となり、茶の湯を通じて現代日本に受け継がれているのです。