ファシズムと闘い、エチオピアの独立を強力に支援した女性がいた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3427)】
オミナエシ(女郎花。写真1~3)、オトコエシ(男郎花。写真4~6)、ツリガネニンジン(写真10)、ワレモコウ(写真11)が咲いています。トケイソウ(写真12)が蕾を付けています。オトコエシに体長4mmほどのアズチグモの雄(写真4~8)がいるのに気づきました。観察仲間の和田猛さん直伝のスマホ用マクロレンズが威力を発揮しました(写真8、9)。
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閑話休題、『エチオピアの歴史を変えた女たちの肖像』(テケステ・ネガシュ著、ベリット・サフルストローム タペストリー、眞城百華・石原美奈子訳、上智大学出版)では、5人の女性が取り上げられています。
個人的に、とりわけ興味深いのは、1882年生まれのイギリス人、シルヴィア・パンクハーストです。
シルヴィアは、イタリアのエチオピア侵攻後にイギリスに亡命した皇帝ハイレセラシエが1941年にエチオピアに帰還するのに大きな貢献を果たしました。ファシスト政権下のイタリアによる支配を受けていたエチオピアの解放を唱えていたシルヴィアは、さまざまな方法で皇帝を内外の敵から庇い、皇帝が無事に帰国できるように力を尽くしたのです。
「シルヴィアの見解からすると、ハイレセラシエはまさに国を象徴する人物であった。彼女は皇帝に対して、君主制には反対するが、ファシズムの犠牲者であるので、彼と彼の国を支援すると告げた。しかし、時が経つにつれてシルヴィアは皇帝に対して個人的に親近感を抱くようになった」。
ハイレセラシエはエチオピアに無事帰還を果たした数日後、シルヴィアにこのような電報を送っています。「あなたは私が首都に戻ってきた喜びを共に味わってくれることでしょう。エチオピアの権利回復のためにあなたが尽力し支援してくださったことを、私とエチオピア国民は決して忘れはしないでしょう」。
1956年、皇帝はシルヴィアに対してエチオピアを第二の故郷としてほしいと招待し、彼女はそれを受け入れました。彼女はエチオピアにおいて「エチオピア・オブザーヴァー」という月刊誌を創刊し、亡くなる1960年まで編集に携わり、同時に多くの人道支援プロジェクトに従事しました。
シルヴィアの死後のことだが、1974年のクーデタによって君主制が廃止され、ハイレセラシエは1975年8月27日に殺害されました。