死後の世界について問われた釈迦は、人知では知り得ないと答えた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3474)】
フジバカマ(写真1~3)が群生している所で、アサギマダラの雄(写真4~8)、アオスジアゲハ(写真9~12)、メスグロヒョウモンの雌(写真13)をカメラに収めました。行き合ったチョウの専門家・柳澤勉氏から、クロマダラソテツシジミの貴重な情報が得られました。ミゾソバ(写真14)が咲いています。ヤブサンザシ(写真15)が実を付けています。因みに、本日の歩数は11,211でした。
閑話休題、ネット読書会「読書の森」の読書仲間の寺島計輔氏の書評に触発されて、『初期仏教――ブッダの思想をたどる』(馬場紀寿著、岩波新書)を読みたくなりました。
本書では、「原始仏教」は「初期仏教」と、「釈迦」は「ゴータマ・ブッダ」と表記されています。
私は釈迦自身が説いた初期仏教に強い関心を抱いており、中でも一番知りたいのは、釈迦は死後の世界をどう考えていたのか、ということです。
●初期仏教は、全能の神を否定した。もし「神」を全能の存在と定義するなら、初期仏教は「無神論」である。
●初期仏教は、神に祈るという行為によって人間が救済されるとは考えない。
●初期仏教は、主観・客観を超えた、言語を絶する悟りの体験といったことを説かない。社会や個人の規範を示すこともしない。
●初期仏教は、極楽浄土の阿弥陀仏も、苦しいときに飛んで助けに来てくれる観音菩薩も説かない。永遠に生きている仏も、曼荼羅で描かれる仏世界も説かない。
●初期仏教では、修行はするが、論理的に矛盾した問題(公案)に集中するとか、ただ坐禅(只管打坐)をするといったことはない。出家者が在家信者の葬送儀礼を執り行うことはなく、祈祷をすることもない。
●初期仏教は、超越的存在から与えられた規範によってではなく、一人生まれ、一人死にゆく「自己」に立脚して倫理を組み立てる。さらに、生の不確実性を真正面から見据え、自己を再生産する「渇望」という衝動の克服を説く。
●釈迦没後、諸部派が釈迦の教えとして共有した「布施」、「戒」、「四聖諦」、「縁起」、「五蘊」、「六処」などの教えは、紀元前に、かつ大乗仏教の興起以前に存在していた。
●初期仏教は、唯物論とは立ち位置が異なる。唯物論は、人間を構成する諸要素は死によって分解するから無に帰すると考えるが、初期仏教は、古代インドの人々が死後に天界へ再生しようとする渇望の存在を認めた。再生へ向かって渇望が駆動するという生存のあり方を、批判的に明らかにした点で、初期仏教は唯物論と袂を分かったのである。
●初期仏教が目指す「涅槃」、「解脱」、「苦滅」とは自己の再生産からの解放に他ならない。すなわち、釈迦の「生」とは、自己の再生産を停止した「再生なき生」なのである。
●初期仏教における「解脱」は、「欲望・生存・無知からの心の解放」なのである。「解脱」は、輪廻という「自己の再生産」からの解放を指すことになる。
●「再生しないのならば、死後はどうなるのか、死後の世界は存在せず、死によって全てが消えると考えるのか」という問いに対し、釈迦は、死後について論じることはふさわしくないと答えた。不可知だ(人知では知り得ない)というのである。
多くの学びが得られる一冊です。