榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

日本の古代の女官は、ばりばりのキャリア・ウーマンだった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(83)】

【amazon 『古代の女性官僚』 カスタマーレビュー 2015年6月2日】 叙熱的読書人間のないしょ話(83)

書斎の片隅に、箒に跨った魔女がぶら下がっています。オランダのアムステルダムで漸く見つけた50cm以上ある人形で、魔女らしさがリアルに表現されているところが気に入っています。

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閑話休題、『古代の女性官僚――女官の出世・結婚・引退』(伊集院葉子著、吉川弘文館)には、びっくりすることが書かれています。

「はじめにおことわりしておきたいのは、日本の古代女官(にょかん)は、隋唐帝国やチャングムの時代の朝鮮王朝の後宮女官たちとは違って、皇帝や国王に隷属した側妾候補ではなかったということである。・・・日本の古代女官は、律令によって規定された行政システムの一部だった。日本に律令が導入されて国家の形態がととのえられた7世紀末から8世紀にかけては、女官抜きには、行政運営も天皇の生活も成り立たないほど、国家のシステムに深く組み込まれていたのである」。

女官の仕事について――「日本の後宮は中国のような閉ざされた空間ではなく、男子禁制の女性だけの空間でもなかった。・・・男女の官人の共同労働がごくあたりまえだった。・・・中国や朝鮮半島の王朝は宦官(去勢された男性)を必要としたが、日本は導入しなかった。もともと男女がともに働いていたため、採用する理由がなかったのである。また、唐では、宦官と女官の関係は、共労関係ではなく、監督する側(宦官)と、される側(女官)という関係だったとされる。しかし日本では、令制前の遺制によって男女共労が温存されただけではなく、女官が男官を指示・監理する仕組みも存在した。これらは、中国とは異なるわが国独自のあり方として注目されてよいだろう」。著者の意見に全く同感です。

女官の勤務評定について――「(天武朝に)女性の勤務評定(考選)を男官と同様にすべしという規定が打ち出されていたことは、律令官僚機構構築にあたっての女性の位置づけと編成原理を考えるうえで、見過ごすことのできない大きな意味をもつ」。

女官の出世について――「低い門地の出身でありながらキャリアを積み、貴族官僚の域に達した女官たちの活躍は、古代史の史料的制約の中でも見過ごすことのできないリアルさをもって迫ってくる」。「女官として実績を積み上げ、成選を重ねて五位以上に到達しても、中央の大貴族出身者のポストを超えることはできなかったのである。男性官僚も、地方豪族の出自でありながら右大臣にまで昇った吉備真備を除いては、地方出身者や中小豪族出身者の上昇の難しさは同様だが、出自がもたらす限界は、『ガラスの天井』のように彼女たちに息苦しくのしかかっていただろう」。

女官の恋と結婚について――「女官も恋をし、結婚する――というと、漢代史や唐代史を専門とする研究者に驚かれることが多い。『そんなバカな』『姦通というのではないか?』『お咎めは?』というリアクションには、とまどった。なかには、『女官は、えっと、その、天皇のお手つきではないのですか?』などと、少し気恥ずかしげに問われる場合もあり、次第に、結婚できるということ自体が、わが国の女官の大きな特徴であり、との根底には、大王(天皇)に性的に従属しない存在としての女官の特質が横たわるのだと確信を深めたものである」。

女房の登場について――「天皇の政務のあり方や後宮の変容に伴い、平安時代初期には皇后をトップにいただく後宮のヒエラルキーが形作られ、女官もそのなかに組み込まれていった。・・・天皇の周辺に『女房』が立ち現れる。律令女官制度の変容の先に、紫式部たちに代表される女房の時代が開かれるのである。平安時代の女房は、大きく分けて、天皇に仕える『上(うえ)の女房』(=『内(うち)の女房』)、女御など天皇のキサキに仕える『キサキの女房』、貴族の家に仕える『家の女房』に分類される」。「平安中期の公卿に右大臣藤原実資がいる。彼の日記『小右記』には、中宮彰子と実資の取り次ぎをする女房が描かれている。この女房について、実資は『越後守為時女。此の女を以て前々雑事を啓せしむるのみ』と書く。為時の女とはつまり、紫式部である。このようなキサキと貴族との取り次ぎは、女房の大事な役割の一つだった」。すなわち、私たちに馴染みのある紫式部や清少納言たちは、后妃に仕える、後宮の変化に伴って出現した新しいタイプの女官だったのです。