緩んだ気持ちを引き締める、毒に満ちたエッセイ集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(50)】
私ども夫婦がとりわけ気に入っている桜並木を、今年も訪れました。千葉県白井市の「今井の桜」は、広々とした田園風景の中を流れる農業用水路の両岸に2kmに亘ってソメイヨシノが続いています。東京・中目黒の目黒川沿いの桜は艶やかな淑女のように華やかですが、ここの桜は恥じらう清純な乙女の趣です。上空ではヒバリが囀り、森からはウグイスの声が聞こえてきます。コゲラも鳴いています。時折、魚が跳ねるドボンという水音がします。水路沿いの農道をそぞろ歩きしていると、まるで与謝蕪村ののどかな俳画の世界に迷い込んだような気分です。
のんびりした後は、気持ちを引き締めることにしましょう。この目的にもってこいなのが、エッセイ集の『最後から二番目の毒想』(倉橋由美子著、講談社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)です。著者自身が本書について、「いつも惰眠を貪っているふとりすぎた脳細胞を目覚めさせるための毒言集」と言っているくらいですから。
収録されている「倉橋由美子のウィット事典」を見てみましょう。「い:イフ――過去の方を向いて『もしあの時こうだったら』と『たら』を連発してみても仕方がない。『たら』つまり『イフ』は未来の方を向いて使わなくてはいけない。また『私だったら』どうするだろうかと、相手の立場に立って考えてみるのも『イフ』の有効な使い方である。頭のいい人ほど『イフ』を沢山使って考えるものである」。
「し:辞書――手紙でも何でも、人に読まれる文章を書くのに辞書を使わない人がいる。化粧しないで人前に出るよりも失礼である。大概の人は便箋に二、三枚も書けばかならず誤字、宛て字を書く。誤字などないと信じて疑わない人は鏡を見たことがない人と同じで、もはや救いがたい。辞書とはそういうものなので、何でもいいから各種類一冊ずつあることが大事である。辞書を引かない人は多分もっていない人であろう」。
「な:難解――難解さはしばしば尊敬される。難解だというので評判になって売れる本もある。難解と言われる文章には二種類あって、一つは扱っている事の性質上、卒読したのではわからないもの、今一つは書いた本人にもよくわかっていないことを書いた結果、誰にもわからなくなっている難解さである。これを尊敬するのは知らない者同士が暗闇で美人だと褒めあっているようなもの」。
「ふ:文は人なり――文章を読んでもそれを書いた人の顔が浮んでくるわけではない。人柄がわかることもあるが、わからないこともある。立派な文章を書く人が世にも醜怪な風貌やいやらしい性格の持主であったりする。勿論、いやらしい文章を書く人は間違いなくいやらしい人物である。文章はその人の何よりも能力をあらわす。顔を見れば美醜が一目でわかるように、文章を読めば能力の程度がわかる」。
このように、全ページに強烈な毒が撒かれているのです。