天城越えの途中で知り合った若い女が殺人事件の犯人と疑われていたとは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(52)】
茨城県古河市の古賀総合公園では、ソメイヨシノとハナモモが美しく咲き競っていました。女房も、文字どおり桃源郷ねと、至極満足そうでした。しかし、この世に桃源郷などは存在せず、現実の世界は厳しいものであることを私は知っているのです。
このことを確認したくなって、書斎の本棚から短篇集『黒い画集』(松本清張著、新潮文庫)を取り出し、『天城越え』を40年ぶりに読み返しました。
「私が、はじめて天城を越えたのは30数年昔になる」と書き出されていますが、これは、川端康成の『伊豆の踊子』の主人公の高等学校生が天城トンネルを越えたのとほぼ同時期のことでした。もっとも、この後、展開されるストーリーは川端の純愛物語とは程遠いものですが。
生活が楽ではない鍛冶屋の三男で16歳の「私」は、親に黙って家出をします。その途中、天城の山道で22~23歳の女と出会います。「女の顔は白く、あざやかな赤い口紅を塗っていた。白粉のよい匂いが、やわらかい風といっしょに私の鼻にただよった」。この「黒瞳(くろめ)の張った、美しい顔」の女と同行することになりました。
暫く行った所で流れ者の男の後ろ姿が見えた時、女が急に私に向かって、「兄さん、悪いけれど、あんた、先に行って頂戴」と言います。びっくりして唖然とする私に、「あのひとにぜひ話があるんでね、先に行って頂戴。話がすんだら、また、兄さんに追いつくからね」と言い聞かせるのです。
「それから30数年経った。私は、現在、静岡県の西側の中都市で、印刷業を営んでいる。・・・私が、なぜいまごろ、30余年前のことを思いだしたかというと、最近、静岡県警察本部のある課から『刑事捜査参考資料』という本の印刷を頼まれたからだ。私は自分の所で印刷し、製本したこの本を、ある日、何気なく読んだのだが、4つか5つ集めた静岡県内の犯罪例の中に、思いがけなく、30数年前、私が天城越えのときに遭遇した土工と、きれいな女とのことが書いてあった。そして、そこには、私自身も登場していた」。
その資料集の「天城山の土工殺し事件」には、あの女が犯人と疑われ、取り調べを受けたが、証拠不十分で無罪となったことが記されているではありませんか。
最後に思いがけないどんでん返しが待ち構えているのですが、いかにも清張らしい練達の推理小説に仕上がっています。おかげで、やはり桃源郷などというものは現実には存在しないことを実感することができました。