シェイクスピアをより深く理解するための架空インタヴュー集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(287)】
東京・上野の不忍池ではユリカモメが飛び回っています。『伊勢物語』の主人公・在原業平が東下りをした時、隅田川で見かけ、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と詠った「都鳥」は、ミヤコドリではなく、このユリカモメです。カモたちもたくさんいます。スズメが目白押しならぬ雀押し状態になっています(笑)。上野公園では、早くもカンザクラが咲いています。昼食に寄った店で大きな壺に出会いました。
閑話休題、『シェイクスピアとコーヒータイム』(スタンリー・ウェルズ著、前沢浩子訳、三元社)は、架空のインタヴューにウィリアム・シェイクスピアが答えるという体裁を取っていますが、内容は確かな歴史的事実に基づいています。
シェイクスピアは「職業的な作家であり、良き劇団員であり、地に足のついた詩人」でした。
若い時の「宮内大臣一座の結成が、個人的にも職業的にも、それほど重大だった、その理由はなんですか」という問いには、こう答えています。「職業も安定したし、経済的にも安定したのが大きいです。劇団の同僚たちからも信頼され、私はより自由に書きたい戯曲を選ぶことができました。・・・私は宮内大臣一座の仲間たちのそれぞれの技術を熟知するようになって、それに合わせて劇を書きました」。
「俳優業、地方巡業、創作に加え、事業にも関わり、とてもお忙しい生活をなさりながら、たいへんな量の読書もなさいましたね」に対する答えは、このようです。「読書なしでは戯曲は書けませんでしたよ。読書は大好きでした。仲間たちは午後の公演のあと夜は酒場で過ごしていましたが、私は下宿に引っ込んで本を読むということがしょっちゅうでした。分厚い古典を読んでも飽きることがありませんでした」。
「どの時代にあっても言葉を変革する人はいますが、シェイクスピアさん、あなたはこの400年にわたって英語という言語を代表してきました。そこが並はずれています。計算によると、あなたは1700もの新しい言葉を英語にもたらし、そのほぼ半分が今もなお使われているそうです。なぜそれらの新しい言葉を生み出せたのですか」には、「私は伝えたい考えや感情を表現するためにどんどん言葉を作り出すようになったんです」と応じています。シェイクスピアの造語はたくさんあり、ラテン語、ギリシャ語、フランス語を基にしたものが多いのですが、使い方が独創的な言葉もあります。シェイクスピアの戯曲から近代の英語の中へと定着したフレーズもあります。
「実際の執筆はどのようになさったのですか。どのような手順で書かれたのですか」という質問には、こう回答しています。「紙にペンをおろす、その前から劇作は始まっています。まず題材を選ばなければなりません。それから劇作家として何をしたいのか、舞台の上で何を見て、何を聞きたいのか、その考えをふくらませる必要があります。それから読むんです、ものすごくたくさん。展開や登場人物に対して独自の視点を持つのが肝心だと私は思っていました。いちばん長く時間がかかるのは構想ですね」。
「その頃、ご家族との生活はどうしてらしたんですか」には、こう答えています。「(妻と娘たちが暮らす)ストラットフォードの自宅に送金して私が望むような生活を家族にさせることができました。・・・ストラットフォードでは他にも資産活用をしています。1602年、父が亡くなった翌年ですが、107エーカーの土地を購入しました。娘のスザンナが結婚するときの良い持参金になると思ったんです。1605年には、さらに大きな投資だったんですが、440ポンドを払ってストラットフォードの町の十分の一税の徴収権を手に入れました。この徴収権によって、かなりな金額の収入が得られましたし、我が家に対する町での信望も上がりました」。シェイクスピアが金銭面でもしっかり者だったとは意外でした。
同時代に書かれたものにシェイクスピアの名前が数多く残っています。そのほとんどが褒め言葉であり、その人となりを貶すようなものは見当たりません。同時代人の間で、シェイクスピアは人気のある人物だったようです。
シェイクスピアをより深く理解するのに恰好な一冊です。