榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

仏陀の教えに救われた、遥か昔の女性たちの喜びの証言集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(630)】

【amazon 『尼僧の告白』 カスタマーレビュー 2016年12月29日】 情熱的読書人間のないしょ話(630)

散策中、ツグミ、ムクドリ、シジュウカラ、アオサギ+コサギをカメラに収めました。ソシンロウバイの黄色い花が芳香を放っています。久しぶりに霜柱を見ました。今日の空は、朝、昼、夕と変化に富んでいました。もう3つ寝ると、お正月ですね。因みに、本日の歩数は16,952でした。

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閑話休題、『尼僧の告白――テーリーガーター』(中村元訳、岩波文庫)は、上座部(小乗)仏教の経典の一つです。

本書を読むと、遥か昔から、女性たちが、身分の高低に拘わらず、貧富に拘わらず、美醜に拘わらず、才能の有無に拘わらず、男尊女卑の下で苦労してきたことが分かります。そして、そういう女性たちが仏陀の教えによって救われた喜びが書き留められています。

もと遊女であったヴィマラー尼の場合。「(わが身の)容色とすがたと幸運と名声とに酔いしれ、若さにたよって、わたしは、他の女人たちを見下していました。愚かな男たちの言い寄るこの身体を、いとも美しく飾って、網をひろげた猟師のように、わたしは娼家の門に立っていました。・・・そのわたしが、いまや、頭髪を剃り、大衣をまとって、托鉢に出かけて、樹の根もとで、<思考せざる境地>を体得して、坐しているのです。天界と人間界の軛(束縛)は、すべて断たれました。すべての汚れを捨てて、わたしは清涼となり、安らかに帰しています」。

ウッパラヴァンナー尼の場合。「わたしたち、母と娘の両人は、同一の夫を共にしていました。そのわたしに、未だかつてない、身の毛もよだつ、ぞっとする思いが起りました。――。厭わしいかな! 愛欲は不浄で、悪臭を放ち、苦難が多い。――われら、母と娘とが同じ夫を共にするとは! もろもろの欲望には患いのあることを見て、また世を捨てて出離することがしっかりとした安穏であると見て、わたしは王舎城において出家して、家に在る生活から出て、家無き生活に入りました。・・・ブッダの教え(の実行)がなしとげられました。・・・快楽の喜びは、いたるところで壊滅され、(無明の)闇黒の塊りは、破り砕かれた。悪魔よ。このように知れ、――そなたは打ち敗かされたのだ。滅ぼす者よ」。

プンニカー尼の場合。「水汲女として、わたしは寒いときにも、つねに水の中に入りました。――貴婦人たちから罰せられるのを恐れおののいて、またことばで怒りを発せられるのを恐れ悩まされて。・・・ブッダと、理法と、修行者のつどいとに帰依なさい。もろもろの戒しめをたもちなさい。そうすれば、あなたのためになるでしょう」。

アンバパーリー尼の場合。「わたしの両方の乳房は、昔は、豊かにふくらんで円く、均整がとれて、上に向いていましたが、(いまや)それらは、水の入っていない皮袋のように垂れ下ってしまいました。真理を語るかたのことばに、誤りはありません。わたしの身体は、よく磨いた黄金の板のように、昔は美しかったのですが、いまでは、細かい皺で覆われています。真理を語るかたのことばに、誤りはありません。・・・このように、より集まって出来ているこの身は、老いさらばえて、多くの苦しみのむらがるところです。それは、塗料の剥げ落ちたあばら家です。真理を語るかたのことばに、誤りはありません」。

ジーヴァカのマンゴー林に住むスバー尼の場合。「(誘惑する男いわく)『あなたは、若くて、美しい。あなたは、出家したとて、なんになるのです? さあ、黄衣を投げすてなさい。花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう』。・・・その尼僧は、その男から脱れて、妙なるブッダのみもとに行った。(ブッダの)妙なる功徳の相を見て、(かの女の)眼は、もとどおりになった」。

読み終わって、現代の女性たちは幸せなのだろうか、と余計なことを考えてしまいました。