書物に書かれているのは、他者とのキャッチボールの世界だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1064)】
あちこちで、コブシが咲いています。アセビも頑張っています。因みに、本日の歩数は10,978でした。
閑話休題、『色川武大・阿佐田哲也ベスト・エッセイ』(色川武大・阿佐田哲也著、大庭萱朗編、ちくま文庫)は、作家・色川武大と麻雀師・阿佐田哲也という二つの顔を持つユニークな人物のエッセイ集です。
「他者とのキャッチボールを」では、著者の読書に対する基本的な考え方が綴られています。「はじめにおことわりしておきたいのですが、私は無学の代表のような男で、正規の学歴は旧制中学無期停学というところでふっつり切れております」。
「旧約聖書を読んで、生まれてはじめて、人間、あるいは人間たちの知恵の怖ろしさを知りました。私はもう二十六七になっていました。大方の読者には私がアホらしく見えるにちがいありませんが、このとき本当におどろいたのです。このおどろきの実感は今もってなまなましく覚えています。私はそれまで、書物を軽視していたことを悔いました。私は、自分の本能、乃至気質の確かさをうぬぼれているようなところがあって、他人の小説など見てもその点ではさほど自分が劣っていないような気がしていたのです」。
「けれどもそれはまったく見当ちがいでした。私の場合、ボールを宙に投げているだけの形とすると、書物に書き現わされている世界は、(すくなくとも一級品は)ただ宙に投げているだけではなくて、投げたり返ってきたり、キャッチボールの世界だったのですね。他者とキャッチボールして葛藤するという世界でした。私はこのときはじめて、ドラマというものは、自分と、自分よりも大きな存在、自分を律してくるようなものとの葛藤なのだと知りました。自分より大きな存在ゆえに自分が結局は負けてしまうだろうと思えるものに対して、いかに戦っていくか、ということが眼目になっていて、それがとりもなおさず生きるということなのだと知ったのです」。
「読書とは、結局、知識を得るということよりも、鮮烈な驚きに出遇うことからまずはじまらなければならぬと思っています」。
「有馬さんの青春」には、私の好きな作家・有馬頼義の小説を生み出すための苦悩が活写されています。「私も偶然訪問した夜、主が病院に連れ去られたあと、書斎の座卓の上の大皿に盛られた白い錠剤の山を見て、息を呑んだおぼえがある。生色をとりもどした有馬さんは、照れたように笑うばかりでとりあおうとしなし。薬は熟練工だから大丈夫、という。しかしこの二十年ほど、明るい積極的な時期をはさみながら、何度か極限の状態に沈んだ。そうして結局のところ、年ごとに痛々しく、次第に生色を失っていった」。
有馬の端正な文体の陰に、このような凄惨な生活があったとは、驚きです。
「山田風太郎さん」には、著者の山田風太郎に対する敬意が溢れています。「私はこの山田さんを眺めていて、はじめて、人の才能というものを具体的に眼にした思いだった。それまで、夏目漱石とか芥川龍之介、近くは太宰治とか坂口安吾とか、書物の世界で知っていた才能というものに、ごく身近で接したのである。・・・私は、それほど年齢のちがわないこの作家を仰ぎ見るような思いでいつも眺めていた」。
「私はある意味で、ずっと以前から山田さんの小説を、はるかな目標のようにしてきた。能力がちがうからどうにもならないけれども、はるか後方をおくればせながらくっついていこうと思う」。