ヒマラヤの小王国で解放戦線が行ったこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2097)】
NHKの朝ドラ『おちょやん』のヒロインのモデル・浪花千栄子の古い琺瑯看板を見かけました。
閑話休題、「読書クラブ 本好きですか?」の読書仲間・中谷隆志氏に薦められた『弥勒』(篠田節子著、集英社文庫)を手にしました。
日本のT新聞の事業部員の永岡英彰は、失われようとしている仏像美術保護のため、ヒマラヤの小王国・パスキムに潜入したが、パスキム解放戦線が起こした政変に巻き込まれてしまいます。
「唖然としたまま永岡は堂を出て、堂の裏手にある僧院に続く石畳の庭を歩いていく。そうするうちに、においは一段とひどくなってきた。全身の毛が逆立つのを覚えながら、永岡はゆっくりと僧院に近づいていった。扉は開け放たれていた。永岡は小さく呻き声を上げた。町中では一つもなかったものが、ここにあった。床の上に、ねじれ、積み重なり、無数の死体が、転がっていた。足が震えた。一刻も早く、この町を出ろ、とでも言うように、全身がわなないている。それと相反するように震える足が、屍の方に近づいていく。片腕を建物の外に出し、伸びかけた坊主頭を仰け反らせ、舌をだらりと口から出して絶命している死体は、腐り、褐色に変わっている。腐り落ち、空洞になった目が虚空を睨んでいる。その体を覆った小豆色の衣。その下にも死体。その向こうにも死体。床を埋め尽くして死体がある。どれも舌を出し小豆色の僧衣を身につけた死体の山だ。・・・死体はすべて同じ方法で殺されていた。地面に引き倒し、衣の胸の部分を開き、上腹の皮膚をナイフで切り裂き、そこから手を入れ、肺に穴を開ける。そのとき苦しんで舌を出すので、末期の水をその舌にかけてやる。チベットなどで家畜を屠るときの作法の一つだ。銀の水差しはそのとき使うもので、ここの僧院の修行僧たちは、家畜と同じ殺され方をしていた。しかし家畜と異なり、皮を剥がれ干し肉にはされなかったために、彼らは蠅にたかられ、ただ腐っていく。・・・いつの間にか、マトゥラという尼僧院の中庭に迷い込んでいた。・・・『朗らかで明るかった四百人の尼僧たちが、お腹に穴を開けられ、そこから手を入れられ、内臓を破られて殺されました。それが一番簡単で、楽な死に方だと、(パキシム解放戦線の最高幹部、ラクパ・)ゲルツェンたちは信じているのです。それを慈悲と信じているのです』」。
「(ゲルツェンは)今まで、だれも想像もしなかったような、精神の改革を目指している。これは革命でもクーデターでもなく、宗教改革だ。宗教を否定したものが行なおうとしている宗教改革。僧侶を殺し、もし売ればその代金で大量の武器を買えるはずの貴重な宗教美術を谷に投げ落とし、既存の宗教をすべて否定し、親子や家族の絆を断ち切り、兄弟という言葉でくくられた水平的平等を達成しようとしている」。
「カターから来た女と、この村の男の一人が呼ばれ、並んで立たされた。次に呼び上げられた女と男が、彼らの後ろに行く。カターの女と、村の男や兵士とのカップルが、つぎつぎにできて、並んでいく。まさかと思った。冗談でも余興でもなく、これは集団結婚式らしかった。以前の家庭を解体させ、新たなカップルを支配者が作る、強制結婚だ。それも町の女と村の男という組み合わせの」。
「『ゲルツェンたちは急ぎ過ぎて、すべてを壊していくわ。私たちが村に入り、一つ一つ改善していこうとしたことを、彼は根こそぎ壊して新たなものを作り上げようとしている。けれど、人の心はそんなに簡単に変われない。何十年もかかるのよ』」。
「最初は因習と迷信に縛られた村人、次にはカターから来た医者たち、さらにカターから来た知識階級の人々が、彼ら(パキシム解放戦線)の敵になった。一つ一つ排除していった挙げ句、今度は幹部同士が殺し合いを演じている」。
「永岡は(ゲルツェンに向かって)叫んだ。『ここが理想郷か。無計画で不自然な人口流入によってみんな飢えている。森は丸坊主にされ、農業の伝統は崩され、土地は痩せ、耕地は流され・・・』。『やめろ』。低い声でゲルツェンは遮った。かまわず永岡は続けた。・・・『人の魂は腐らなかったが、子供の魂は兇器に変わった。大人を殴り、殺すことなどなんとも思ってはいない。自分の両親を売って処刑させる。あんたの教えた正義のためだ』」。
「そうした信仰が力を持っていた時代が、パスキムの人々にとって幸福だったのか否かは、だれにもわからない。人々にとって一律に幸福な世界などありえないし、この国にはそれを可能にする全能の神もいない。かわりにあらゆる神を否定しつつ、自ら神になろうとした男がいた。自らの理想の下に、地上の神の国を出現させようとした憂鬱な顔の無神論者がいた。しかし、善悪、貴賤、陰陽、災いと救済といったすべてのものを呑み込んだ、この国の神々、諸仏、妖怪、鬼魔の群れは、不完全な生きものである一人の人間がパンテオンの頂上に居座ることを許さなかった」。
「『私は地獄のような場所に連れていかれ、最愛の伴侶を亡くし、二人の人間を殺し、その他にも誤りから、多くの人と多くの生きものを死なせました。どうか私をお許しください。どうかこの先、国境を無事に越え、保護されるまでの間、私をお守りください。必要な水や食物をお与えください』。(永岡は)そこまで言って、笑いが浮かんできた。なんというわかりやすく、目先のことだけしか考えない祈りなのだろう」。
「俺は人を騙し、人の肉を食い、人を殺した。これは罪なのか、罪は許されるのか、それとも罪も許しも救済も、何も存在しないのか」。永岡の一年に及ぶ異常体験の全てが、この思いに凝縮しています。
行き過ぎた理想主義に対する頂門の一針とすべき作品です。