明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の通説を論理的に覆す、説得力のある一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2665)】
シラサギカヤツリ(写真1)、ヤブカンゾウ(写真2、3)、モミジアオイ(写真4)、ムクゲ(写真5、6)、フロックス・パニキュラータ(宿根フロックス、クサキョウチクトウ。写真7)、ヒマワリ(写真8)が咲いています。ナス(写真9)が花と実を付けています。イチジク(写真10)、トマト(写真11)、ピーマン(写真12)が実を付けています。
閑話休題、『戦国武将、虚像と実像』(呉座勇一著、角川新書)で、とりわけ興味深いのは、明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康についての論考です。
●明智光秀は常識人だったのか?
「明智光秀というと、古典的教養を備えた常識人で、朝廷や幕府といった既存の権威・秩序を尊重する保守派の印象が強いだろう。しかし以前、拙稿『明智光秀と本能寺の変』で論じたように、光秀が古典に通じていたのは事実だが、伝統や建機を尊重し、改革に否定的な人物であることを明確に示す一次史料は存在しない」。
「同時代人は、光秀を冷酷で恩知らずな策略家とみなしており、彼に同情を示すことはなかった」。
「光秀謀反の動機として、野望より怨恨が重視されていく背景には、社会の価値観の変化があったと考えられる。天下泰平の世になり、武士の主従関係が安定化すると、己の野望のために恩義ある主君を裏切るという戦国武将の価値観が理解されなくなったのだろう。怨恨による謀反の方がまだしもリアリティを持つようになったと思われる」。
●織田信長は革命児だったのか?
「近年の歴史学界では、織田信長が革新者であるという理解が相対化されつつある。長篠の戦いでの鉄砲三段撃ち(輪番射撃)や第二次木津川口の戦いでの鉄甲船といった信長の『軍事革命』については、在野の歴史研究家である藤本正行氏らの研究によって、歴史的事実ではないという見解が現在では主流である。また、拙稿『明智光秀と本能寺の変』で論じたように、信長が兵農分離を進めたという通説にも疑義が呈されている。信長が軍事的革新者だったとは言いがたい。織田信長の(楽市楽座などの)経済政策が先進的、画期的であったという通説的理解にも疑問がある。・・・織田信長が自分の領国全体に楽市楽座政策を展開した形跡は見られない」。
「織田信長は既存のシステムを根こそぎ否定するのではなく、むしろ既得権者と折り合いをつけて、漸進的な改革を行っている。信長を『革命家』とみなすのは過大評価だろう」。
「足利義昭と織田信長との間に摩擦があったことは否定できないが、両者は基本的に協調関係にあった」。
「織田信長と朝廷との関係はどうか。歴史学者の今谷明氏の『信長と天皇』以来、信長と朝廷との対立関係を説く論者が相次いだ。しかし、この見解も、現在の歴史学界では批判されている。・・・残された同時代史料を見る限り、朝廷を支えようという信長の姿勢は一貫している」。
●豊臣秀吉は人たらしだったのか?
「実のところ、秀吉の『人たらし』エピソードのほとんどは後世の創作であり、本当に秀吉が人間的魅力にあふれた人物だったかは分からない。・・・現実の豊臣秀吉が人情の機微に通じていたことを示す、確たる史料はない。・・・秀吉は織田家臣時代の中国攻めで別所長治・小寺政職らの離反を招いており、むしろ人望が薄かった可能性すらある」。
「豊臣秀吉が真心をぶつけることによって敵を味方にしたという事例は、信頼できる史料によって裏付けられない。頼山陽が『日本外史』で喝破したように、秀吉の調略は基本的に利益で釣るものであった」。
●徳川家康は狸親父だったのか?
「近年の研究は、織田信長から(嫡男の)信康殺害指示が出ていたことに否定的である。信康事件の背景には、親織田路線を採る浜松城の家康派と親武田路線への転換を唱える岡崎城の信康派との派閥抗争があり、当主である家康が家中の混乱を収拾するために信康を追放、殺害した。これが事件の本質だろう」。
「(方広寺鐘銘事件は)徳川方が鐘銘の問題を必要以上に騒ぎ立て政治的に利用したことは否定できないが、豊臣方に落ち度があったことも事実だ。徳川方のこじつけ、難癖とは言えない。・・・方広寺鐘銘事件の時点では、豊臣家が徳川家への臣従を誓う形での幕引きもあり得た。このことは歴史学界では共通認識になりつつある。是が非でも豊臣家を滅ぼすと最初から家康が決めていたわけではないとすると、『狸親父』イメージも再考が必要だろう」。
「大坂城内堀埋め立てについても、学界では通説は否定されつつある。細川忠利・毛利輝元ら関東方として従軍した諸大名は国元宛ての書状で、和睦条件に二の丸・三の丸の破却が入っていると述べている。これに従えば、本丸のみを残して他は全て破却することを、大坂方も同意していたと見るべきだろう」。
さまざまな通説を論理的に覆す、説得力のある一冊です。