東北へ旅立った憧れの姉は、なぜ浜松で死なねばならなかったのか・・・【山椒読書論(210)】
松本清張自身が、「僕の作品には女性のファンは残念ながらいないでしょう」と言っていたという話を聞いたことがある。また、清張は女性経験が乏しいから女性の登場人物を描くのが苦手なのだと、訳知り顔に批評する輩もいる。後者については、「心の襞の奥まで分け入って、女性心理をこれほど巧みに抉り出した作家はいない」と、真っ向から反論したい。
女性心理が精緻に描かれた清張作品は数多いが、この点で一番強く印象に残っているのは、『黒い樹海』(松本清張著、講談社文庫)である。
「やっぱり仙台にするわ。ひさしぶりだから伯父さまにもお目にかかって、平泉や十和田湖の方を回ってみたいわ」と言って、5日間の休暇を取り、嬉しそうに東北へ旅立ったR新聞文化部記者の笠原信子28歳。ところが、その姉が、なぜか逆方向の浜松の踏み切りでのバス衝突事故で急死してしまう。身元を知る手がかりが見つからなかったとのことで知らせがくるのが遅れたが、姉と二人暮らしをしていた妹・笠原祥子は直ちに現場に駆けつける。聡明で美しい姉を崇拝していた祥子は、姉の死の謎を解くため、姉が仕事で担当していた男たちを調べ始める。
「誰かが姉といっしょに、同じバスに乗っていた。その人は前部に座席をとり、姉の荷物を預かっていた。しかし、姉は後部に乗っていた。なぜ、ばらばらに席をとらねばならなかったのだろう。後部の席にいたために、姉は死んだ。前部にいたその人は、無事に助かった。それは、その人が自分の席の網棚に置いていたであろう姉の荷物が、少しもこわれずに無傷だったことでも証明できる。だが、その人は、姉の死の傍にはいなかった。姉は孤独に死んだ。その人は、不慮の事故が発生したとたん、姉の傍から逃げたのだ。血を出して喘いでいる姉を捨てて、その人は遁走したのである」。翻訳兼評論家、彫刻家、生け花家元、洋裁学院理事長、画家、医師の6人に的を絞って調査を進める祥子の行く先々で、次々に殺人事件が起こる。
サスペンスに満ちた推理小説としての面白さは言うまでもないが、信子ほどの才能と美貌に恵まれた女性ならば、もっと男の真実を見抜く目を持ってほしかった、と溜め息が出てしまう。この意味で、とりわけ女性に薦めたい作品である。